「ヌサンタラのドゥリアン(3)」(2023年03月03日)

一度殻を開けてしまったら、すぐに食べるのがベストだ。夜買ってきて半分ほど食べ、残
りを翌朝食べるようなことをしてもまず大丈夫なことが多いのだが、中には翌朝汗をかい
ているやつがいて、果肉に水滴がついていると傷んでいることが少なくない。翌朝食べた
ら酸っぱくなっていたのでは最悪だ。


樹上で完熟した果実をインドネシア人はmatang di pohonあるいはmasak pohonと表現する。
地面に落ちたドリアンは樹上完熟組みだから、durian jatuhanという言葉は完熟を意味し
ている。地面に落ちたものだと客に思わせるために、ドリアン売りはもぎ取ったドリアン
の外皮に枯れ葉や土をわざとなすり付けるようなこともする。

インドネシア語にはdurian runtuhということわざがあり、日本語の「棚ボタ」と同じ使
い方がなされる。熟したドリアンが目の前に落ちてくれば、そりゃ棚ボタだ。何の苦労も
しないで良い物が手に入る、良い目を見る、というのがその意味であり、インドネシアで
ドリアンは良い物の象徴になっている印象をそこから受ける。しかし誤解してはいけない。
インドネシア人の中にも、ドリアンを悪魔の果実だとして忌み嫌っているプリブミがいな
いわけでもないのだから。実際、わたしはそんなプリブミを何人か知っている。


コンパス紙R&Dが2012年12月に全国12大都市住民770人に対して行ったアン
ケート調査によれば、輸入物より国産ドリアンのほうが美味しいという回答が過半数を占
めた。そのとき、ドリアンを買わないと答えたひとが11%超いた。

その表現の解釈がむつかしいのだが、ドリアン愛好者であればどちらが美味いかという箱
に票を入れるのが自然ではないかとわたしには思われるので、この「買わない」に票を入
れたひとは非愛好者ではないかという気がする。非愛好者には「食べるけれども無関心」
から「極右の嫌悪者」までの諸段階があるはずだ。このデータからその極右嫌悪者の比率
を見極めるのは不可能である。とはいえ、極右嫌悪者がインドネシア人の中に稀にしかい
ないとは言えないようにわたしには思えるのである。


それはそうとして、完熟ドリアンが目の前に落ちてくれれば棚ボタと言えるだろうが、標
準的に一個が5キロにもなる実が高さ50メートルにも達する樹の上の方から落ちてきて
頭を直撃したら、とても棚ボタなどと言って喜んでいるわけにはいかないだろう。ドリア
ン結実シーズンにはうかつにドリアン林に入るなという警告もあるくらいだ。ドリアン林
の中を歩いていてバラバラと爆弾が降って来てはたまらない。

ドリアンもさまざまなのであり、最大種のドリアン果実は通常のものの二倍も大きさがあ
って、重さも8〜9キロに達するものから10キロを超えるものまである。こんなものに
直撃されたなら、明日という日はやってこないのではないだろうか。

その場合のdurian runtuhは悪魔のしわざということになるはずで、このことわざの用法
がペシミズムに彩られなかった原因はいったいどこにあったのだろうかという疑問が湧い
てくる。オプチミストという民族精神がその用法を定着させたのだろうか?


ドリアンという果樹はまた地方ごとに独自の種類があり、その樹が産するドリアンにはそ
れぞれその樹種の名称であるXXが付けられて果実はドリアンXXと呼ばれている。

種類の多様性がもっとも豊かな土地がカリマンタン島であり、スマトラ・ミンダナオ・マ
ラヤ半島などの周辺地域にも原生種の分布はたくさん見られるものの、カリマンタンには
及ばないそうだ。それらの多種多様なドリアンの品種はほとんどが産地周辺の市場で消費
されており、全国規模の流通網に載せられるものがない。その体質が昔からインドネシア
のドリアン市場を特徴付けていたため、全国流通網を持つマーケットチェーンがタイやマ
レーシアの輸出向けドリアンを扱うようになった。[ 続く ]