「最初の将軍(終)」(2023年03月07日)

2月20日、NICAの特殊部隊がガンジュッからマラン方面に出撃して来た。敵の同士
討ちを好機と見たのかもしれない。この戦争のプロ集団は進撃が速く、かれらが移動した
あとには手あたり次第に殺された死体が散らばっていた。国軍部隊は早急に山岳地区に撤
退するための動きを始めた。足手まといのタン・マラカをどうするか?ブラウィジャヤ師
団シカタン大隊のスコチョ少尉が決断を下した。処刑せよ。

1949年2月21日、ウィリス山麓にあるクディリ県スロパングンの川岸でタン・マラ
カは射殺された。死体は川に流されたという話もあれば、スロパングンに墓があるという
研究者の調査報告もある。

共和国政府はあとになってそのできごとの全貌を知り、時のハッタ政府はスンコノ東ジャ
ワ師団長とスラッマッ旅団長を更迭して責任を取らせた。だが政府は国民に対してその事
件をいっさい公表せず、沈黙を通したのである。


国軍最初の将軍になったスディルマン大将は、オルバ政権によってインドネシア共和国軍
の聖者に祀り上げられた。第二代大統領になったかれの部下が自分の政権基盤になる軍隊
を国民の前で美化するシンボルに使ったと言えるだろう。オーストラリアの歴史学者の意
見がそれだ。

1968年にオルバ政権は新種のインドネシア銀行券を発行した。表のデザインは左側に
ブランコンをかぶったスディルマン将軍の似顔絵クローズアップが描かれているもので、
額面1ルピアからはじまって21/2, 5,10,25,50,100,500,1000,
5000,10000ルピアまでの11種類が一斉に世の中に出た。

それほど多種類にわたる額面から成るひとつのシリーズ紙幣が一斉に発行されたのはこの
ときかぎりであり、それ以後はシリーズものであっても散発的な発行に変化した。諸資料
からは、オルバ政権が出した最初の金種がスディルマン将軍シリーズだったように思われ
るのだが、もしそれが正しいのであれば、オルバレジームがどのような意味をスディルマ
ン将軍に与えたのかということがそこにほのめいているように感じられないだろうか?


それどころか、全国のどの町でも目抜き通りにスディルマン通りの名前が付けられ、スデ
ィルマン将軍像や記念碑が建てられてランドマークになった。その多くは1970年以降
に建てられたものだ。

バニュマスにはスディルマン将軍大学が設けられて1963年に開校している。またプル
バリンガにある幼少期を送った家はスディルマン博物館になり、マグランのかれの生家も
1967年にスディルマン博物館になった。ヨグヤカルタの総司令官官舎もサスミタロカ
博物館になっている。

それらのスディルマン将軍を飾り立てる装飾にオルバ政権崩壊後、打ちこわしは起こらな
かった。それらの装飾が示すかれの姿が単なる一レジームの政治的な欺瞞でなく、十二分
な実質内容を持っていたことをその事実が証明しているにちがいあるまい。共和国軍最初
の将軍は国家国民の英雄として、きっとこの先の長い歴史を乗り越えてインドネシアに生
き続けることだろう。[ 完 ]