「ミナンカバウの母系制(1)」(2023年03月08日) 西スマトラ州はミナンカバウ人の天地であり、ミナンカバウ人の地縁的生活基盤としての 共同体は古い昔からnagariと呼ばれていた。ミナンカバウ最期の王国で、マジャパヒッ王 家の血を引くと言われているアディティアワルマン大王が興したパガルユン王国は元より、 もっと古い王国の時代からその制度は存在していたと言われている。 ナガリという言葉はサンスクリット語nagaromが語源であり、祖国・故郷・生国など人間 がそこに依拠する土地を指す言葉だ。インドネシア語に摂りこまれているnegaraやnegeri などと同一語源になっている。 ミナンカバウ人の、土地を基盤にする生活共同体の最小単位はtaratakと呼ばれるものだ。 これはたとえば、新たに切り開いた土地に同一氏族の数家庭が住むような形態を指してい る。そこに別の氏族が入植し、混じりあって規模が拡大するとdusunになる。ドゥスンは 日本語の集落のような感覚だろうか。ドゥスンがいくつか集まるとkotoになる。そして広 い領域に散在するコトが共同でナガリを形成するのである。 ミナンカバウ語のコトは慣習法による統治行政が行われる自治居住地区と定義付けられて いるが、それは行政面から見た特徴だ。形態面からコトを見るなら、次のような特徴にな るのではあるまいか。 人間が集まって広い領域に居住するとき、その社会の中心を成す地理的エリアができる。 たいてい住民の密集居住地区になり、稠密な生活行動と社会活動がそこで営まれるのが普 通だ。たとえば、インドネシアの行政区画は州の下に県と市が同格で置かれている。県は インドネシア語でKabupaten、市はKotaと言う。ところがカブパテンの中心地区で、たい てい県庁が置かれている町もコタと呼ばれている。スマラン市を例に取ってみよう。 スマラン市にはその周囲を取り囲んでスマラン県がある。そしてスマラン県の県庁はKota Ungaranに置かれている。しかしそれを日本語でウ~ガラン市と呼ぶことはできない。なぜ なら日本語の市は行政区画名称なのであり、ウ~ガランは行政区画としての市(Kota)に指 定されていないのだ。もしもウ~ガランが市になれば、スマラン県は県庁をそこに置くこ とができなくなるだろう。 ウ~ガランに付けられているコタの意味はスマラン県の中心を成すエリアというものでし かないと考えるべきだ。ナガリの下部機構としてのコトは多分このウ~ガランのコタに比 類することができるように思われる。 ちなみにKBBIでkotaの定義は、1.人間の居住地域、2.人口密集地域、3.壁に囲まれた 都市となっている。ジャワ語のクタkuthaは壁に囲まれた都市を意味しており、マレーシ アのカムスデワンも同様で、kotaの第一義は壁に囲まれた都市を指している。ミナン語の コトはインドネシア語のコタに近いと言うことができそうだ。だがしかし、それらのすべ てに渡って共通項になっているのは人間の居住地区という意味なのである。 ナガリには統治機構があり、統治行政を執行する役人がいる。ナガリが備えていなければ ならない5要素として、道路・水浴場・集会所・モスク・大広場alun-alunが条件になっ ている。そして住民が四つ以上の氏族で構成されていなければ、ナガリは成立しないのだ そうだ。別の資料によれば、ドゥスンは氏族が三つで成り立ち、コトとナガリは四つなけ ればならないと書かれている。 ナガリには君主のような統治支配者がいない。統治支配者はadatなのであり、慣習の決ま りを司るpenghuluが住民の間から選ばれて慣習に従った社会生活を指導する立場に立つ。 プンフルは慣習を司る者なのであり、指導者と呼ばれることがあるのはその意味において だけであって、政治的な意味でナガリを代表する統治者ではない。だからひとりでなけれ ばならない必然性がない。民主主義の言い換えになってしまった合議形式が用いられるよ うになるのも、自然の成り行きだったにちがいあるまい。おまけにプンフルの地位はかれ の子孫へ世襲されないのである。[ 続く ]