「ミナンカバウの母系制(5)」(2023年03月14日)

ミナンカバウでは、1840年代に始まったその時代の変化をナガリが摂り込んだ。原住
民子弟への教育は住民の経済生活を、ひいてはナガリというコミュニティの福祉を向上さ
せるものになる。sekolah nagariと呼ばれる教育機関が1850年代に続々と開かれて住
民への無償教育を行った。住民コミュニティが住民に対して行うサービスのひとつに学校
が含まれたのである。植民地行政はこのスコラナガリにまったく合法性を与えなかった。

ミナンカバウの全域にたくさんのナガリ学校が出現した。Rao, Panti, Lubuk Sikaping, 
Koto Gadang, Airbangis, Padang, Bonjol, Palembayan, Tiku, Payakumbuh, Maninjau, 
Bukittinggi, Talu, Pariaman, Puar Datar, Singkarak, Halaban, Sungai Puar, Batu 
Sangkar, Solok, Trusan, Buo, Asam Kumbang, Paiman, Batang Kapas, Muara Labuh, 
Pelangi, Indrapura....

ミナン全域のスコラナガリに学ぶ生徒数の合計データは次のような発展を示している。
1855年 233
1856年 303
1857年 287
1858年 601
1859年 615
1860年 629
1861年 658
1862年 680
1863年 919
1864年 1,128

1864年のナガリ別就学児童数は大所で次のような人数になっていた。
パダン 237人
パヤクンブ 97人
パリアマン 70人
ソロッ 67人
ブキッティンギ 63人
バトゥサンカル 61人
アイルバギス 18人
パダンは前年まで百数十人のレベルだったのが、その年に激増している。


ブキッティンギのおよそ4キロ東に位置するコトガダンの生徒たちは学校というもののウ
エイトが他のナガリの生徒たちよりはるかに大きなものになっていたようだ。ナガリコト
ガダンは優秀な人材に高等教育を与えるための基金を用意した。オランダ語で合同教育基
金と名付けられた基金と制度の発足を記念して1909年に記念碑がバライアダッに建て
られた。今でもその記念碑を目にすることができる。

コトガダン住民の多くは黄金細工師と東インド政庁公務員だった。公務員の家庭の多くは
19世紀後半からその職に就くようになっていた。かれらは概して子供への教育に熱心で
あり、たいていが子供をオランダに留学させたいと考えていた。子供たちが成人したころ
に激動の渦がインドネシアを襲っていなければ、運動家・活動家として名を残した子供た
ちも東インド政庁の官吏として一生を終えていたかもしれない。

だがそれは「歴史のもしも」でしかないだろう。歴史とはさまざまな要因が組み合わさっ
た結果としての必然として起こるものではあるまいか。所詮は人間が起こすものであると
はいえ、社会と呼ばれる世の中を形成している大きな気体に操られる弱小の存在が人間ひ
とりひとりなのであり、世の中が人間を使って歴史を刻んでいると考えるなら、人間の恣
意も社会の意向から自由にはなり得ないという仮説が唱えられないだろうか。[ 続く ]