「インドネシアと立派な幽霊(後)」(2023年03月17日)

その観点からインドネシアのローカル幽霊たちを見てみると、立派さという点に大きい開
きがある。インドネシアでかれらは一般的に、橋の下、川岸、古井戸、廃屋などのスラム
な場所に住んでいる。それに比べてはるかに立派な幽霊が南海の女王として知られたニャ
イ・ロロ・キドゥルだ。この幽霊はジャワの王たちと特別な関係を持つ上流層幽霊として
信じられており、たくさんの話に登場するが、このような貴族幽霊は例外でしかない。一
般にローカル幽霊は立派さに欠け、この経済危機のさ中ですら誰でも買えるような花々や
食べ物で容易に手なずけられてしまう。

その立派さの欠如が現代インドネシア文学者をして、幽霊たちをただの一撃でその居場所
から追い払ったのだろうか?ハリヤディSハルトワルドヨの小説やスラルコの作品のよう
に、現代インドネシア文学作品のひとつやふたつは幽霊の姿をその中に描き出すことに成
功しているものの、一般論として言うなら、すべての幽霊はインドネシア文学のページか
らはるかかなたの遠隔地へと、1ルピアの賠償金もなしに追い払われてしまったのである。

インドネシア製シネトロンがそんな遠隔地から幽霊を拾い上げた。あちらこちらにつぎは
ぎを当てた上で、幽霊にミニスカート姿で登場してもらった。ところがミニスカートは男
性の目を瞠らせるばかりで社会ステータスを持たないために、シマニスsi Manisと名付け
られた幽霊はアンチョル橋に住み続けているのである。このシネトロンは子供から大人ま
で胸ときめかせて見る番組となり、ヒットした。子供たちが胸ドキドキさせたのは胴から
離れて飛び回る頭のシーンであり、大人が胸ドキドキさせたのは幽霊が着ていた胸と太も
もを垣間見させる衣装だった。ともあれ、アンチョル橋の美女はファンタジー物語に属す
幽霊話とは言えない。幽霊が着ていた衣装のもたらす印象が、オーメンや種々のドラキュ
ラ映画のような幽霊話に通常見られる、種々のアスペクトを通して表現される緊張や恐怖
感に伴われるべき幽霊話としてのステータスをぶち壊しているのだ。


開発は都市部に(文化面ではいざ知らず)形式上の急速な発展をもたらし、かつて幽霊が
普通に棲息していたたくさんの場所を奪った。竹やぶや川岸などを棲息地にするローカル
幽霊話が都会人を嚇かし怖がらせることのできなくなった理由が、多分それなのだろう。
ましてや、われわれの生活環境には、9片バラバラ殺人者・女中を細切れにしたトアンと
ニョニャ・残虐な強盗・食品包装材のように嬰児をドブに捨てる医者や娘・残酷さと残虐
さで伝説の切り裂きジャックの数倍上を行く、今や牢獄で平和に暮らしているロボッ・グ
デッなどのような、もっと凄まじく恐ろしい者たちの姿が頻繁に登場するのだから。

残酷さや残虐さの点においては、ローカル犯罪者は海外の競争相手と少しも見劣りしない
怖さを持っている。ところがローカル幽霊は外国の幽霊と立派さの点で打ち負かされ、当
然ながら幽霊話も同じ運命をたどっている。イギリスや他のヨーロッパ諸国の幽霊話は量
的に豊富であることに加えて、クオリティも賞賛に値するものだ。シェイクスピアやゲー
テからE.T.A.ホフマンやハインリヒ・フォン・クライストに至るシリアス文学の大御所た
ちまでもが幽霊話を書いているのは何ら不思議なことでない。それどころか、サー・ウオ
ルター・スコット、エドガー・アラン・ポー、チャールズ・ディッケンス、ロバート・ル
イス・スティブンソン、ルドヤード・キプリング、ナサニエル・ホーソンらたくさんの文
学者たちも続々と幽霊話の豊穣さに貢献しているのであり、たくさんの幽霊話アンソロジ
ーが権威ある作品集として出版され、読者の絶えざる興味を引き寄せている。


インドネシア社会がローカル製の幽霊映画や幽霊小説よりも輸入もののほうを好むのも無
理はない。今や外国の幽霊たちはますます立派さと威厳を強化している。なぜならそれら
の映画や小説は、幽霊のように神出鬼没で上昇下降転変きわまりない米ドルで輸入しなけ
ればならないのだから。

われわれはわれわれ自身が作る幽霊の鑑賞と愛好、そしてかれらへの愛を学ばなければな
らないにちがいあるまい。[ 完 ]