「内観(後)」(2023年03月31日) < ティワスな政府 > 個人のコンテキストにおけるマワスディリは、高慢・自尊・貪欲・権力欲・性欲の罠に落 ちないように自分自身を制御することである。もっと広い、たとえば政府機構という文脈 においてのマワスディリは国民ワスパダ運動という形を執ることもできる。戦略的でシス テマチックにネットワークを構築して災害の潜在性をマッピングするのだ。国民に脅威を もたらし、また国民の安全感を損なう危険ポイントを総ざらいするのである。そのために は最上の観測ツールとシステム、そしてワワサンが備えられなければならない。 wasという語はwasaと近い関係を持っている。wasの意味はlihat dan dengar dengan jelas である一方、wasaはkuasaの語根であり、その抽象名詞がkekuasaanなのである。kekuasaan (統治権力)がkuwasa (aku wasa = aku berkuasa = arogan)になれば、was(注意深く見聞 きする能力)は失われてしまうだろう。そのとき、行政はtiwas (neti+was: 監督なし・ 聞く耳もなし・心の目も不在)に向かう。ティワスは不道徳であり、賎しく、貧しい。こ の語からtewasが生まれた。 絶えずマワスディリを行って自己の純粋化をはかり、常に努力を怠らないかぎり、統治行 政がテワスに向かうことはない。政府はawas, eling, sadar, waspadaを忘れてはならな い。民衆の心に耳を開き、民衆の心の声からワワサンを引き出してそれを統治行政の手引 きにするのである。 国家統治者がマワスディリを行ってワワサンを持つなら、民衆がワスワスになることはあ るまい。文明社会にティワス(事故や災難)を発生させる乖離は国家統治者と全国民がマ ワスディリを行うことで回避することができる。 かつてのわが民族はいかに賢明だったことだろうか。言葉だけで、いやそれどころか、わ ずか一個の音素を操作するだけでわれわれは自分を読み、本質を見出し、あるいは解決を 得ることができた。そしてちょうどその面、つまり言葉とその発展、においてわが民族の エリート層や支配階層は力を持ち得なかった。もしも言葉がパワーであるとするなら、こ の国にある権力空間は空っぽなのである。ワスパダ・・・ワスパダ・・・[ 完 ]