「ドリアン贈収賄?!」(2023年04月03日)

ライター: インドネシア大学文化科学部教官、カシヤント・サストロディノモ
ソース: 2011年10月7日付けコンパス紙 "Runtuhnya Durian Montong" 

トランスミグラシ労働省高官に対する贈賄のために用意されたと見られる数十億ルピアの
現金は、タイ原産の大型種であるドゥリアンモントンの梱包箱に詰め込まれていた。現金
の詰まったその段ボール箱を証拠品として汚職撲滅コミッション職員が重そうに運ぶ姿が
さまざまなメディアによって報道された。もしもコミッション捜査員による摘発行為を免
れていれば、高官たちは昔からの諺そのままにbagai mendapat durian runtuhを大いに享
受したことだろう。しかしこのような法に反する金の入手をその諺で描くのは当を得てい
るだろうか?

bagai mendapat durian runtuhということわざが思いがけない幸運の降りかかって来るで
きごとを描いていることは、だれでも知っている。その諺にわれわれが抱くイメージの中
には、幸運が降りかかってきた人間はちょうど物質的に困窮していたり、あるいはそんな
幸運を夢にも思っていなかった者の姿がある。宝くじに当たった者にこのことわざを当て
はめるのは可だ。より高い地位に昇進した者もしばしばmendapat durian runtuhと言われ
る。つまりその諺の中のドゥリアンは物質的なものでも、あるいはそうでないものでもか
まわない。重要なのはハラルであることだ。

贈収賄はruntuhnya durianのプロセスに自然さがないために、その諺の範疇に入らない。
樹上で熟したドゥリアンの実は自然に地面に落ちてくるが、贈収賄は無理やり落としたも
のであり、おまけに秘密裡に行われるものであるのだから。それにまた、収賄者は物質的
な困窮の中にいないように推測される。一挙に大量の金をかき集めようとする欲望に包ま
れているだけではないだろうか。だからそのことわざに対するこんな皮肉をわれわれは思
い出さなければならないのだ。

Orang yang ketiban duren pasti cepat sugih (kaya), tetapi sugih borok akibat 
tertusuk duri-duri yang menyeringai di sekujur kulit buah itu.
その文中のruntuhnya durianは瘡蓋(傷跡)を人間の倫理に生じさせるものと解釈するこ
とができるだろう。


果実の王者とあだ名されるドゥリアンはもちろん特別な果物であるために、快楽・強さ・
権力のシンボルとして頻繁に採り上げられてきたように見える。たとえばseperti durian 
menunjukkan pangsanyaという成句は絶えず自分の優れた点を他人に示したい人間の例え
として使われる。優れた点にはいろいろある。権勢・富・知能・・・それを示すのが常に
善であるとはかぎらない。

bagai timun melawan durianという諺は一方的な力関係を示すものだ。一庶民が高官と一
戦交える。その結末がどうなるかは誰にも想像がつく。


masak durian masak manggisというのはとても興味深い成句だ。これが意味しているのは、
男は秘密を守れないのが普通であるのに対して、女は秘密を深く深く秘めてしまうという
こと。違う意見の人は違っていてかまわない。

それはともかくとして、最近何件か起こった政府高官への贈賄スキャンダルでのドゥリア
ンモントンパッケージシークレットミッションは女性たちが仕組んだものだったようだが、
結局最終的には明るみに出されてしまった。ドゥリアンという果実は、ぎっしり詰まった
栄養素のために血をかっかと熱血させる食べ物であることを忘れてはならない。ライオネ
ル・バウアーはdurian.netの中にこう書いている。「夜にそれを食べたなら、あなたは毛
布なしで眠ることができる」。

まるでシマラカマの実のように、ドゥリアンの美味しさはわれわれにそれを享楽させずに
はおかないものだが、その扱いに賢明さが欠けるとそれは災厄に変身する。ドゥリアンモ
ントン梱包箱事件がいみじくもそれを示している。