「レトロネシア(前)」(2023年04月04日)

ライター: 考古学分野の屋外写真家、タリッ・カリル
ソース: 2016年12月24日付けコンパス紙 "Retronesia: Dangdut, Jengki, dan 
Tiga Dara" 

わたしがはじめてインドネシアに来たのは2005年の休暇の時だった。もう10年以上
前のことだ。旅行中わたしに付いて回るダンドゥッ音楽がその休暇の一部になった。心惹
かれた。わたしはこの新しい音楽を頭の中で分析してみた。アジア独特の発声、ボリウッ
ド感覚のビート、伸びあがっては下がる笛の音、エレキギターの鋭い響き。それらはわた
しの意識の中に扇動的で艶やかな雰囲気のヘアスタイルを思い出させた。最初の興奮が鎮
まり、落ち着いて身を入れることが可能になったとき、ダンドゥッはわたしにとって超絶
したものに変化した。これがインドネシアだと呼べるものに。

それから数年して2008年ごろに、わたしはジャカルタに移り住んだ。西ジャワ州バン
ドンを訪れたとき、わたしは1950〜60年代に建てられた古い建物を目にした。それ
はわたしにダンドゥッの初体験を思い出させたのである。特徴的な要素の組み合わさった、
ひとを感動にいざなうものがそこにあった。熱帯の地インドネシアの自然の中に、個性を
持つ建築物を、そしてアメリカ風の建物をわたしは見いだしたのだ。


建築学の門外漢だったわたしは、ひとつのミッションを自分に課した。1950〜60年
代の建築物に関する面白い話を、建築学の面における解説を超えた話を再発見して、それ
らを知らなかったひとたちに知ってもらおうという試みだ。

週末になるとわたしはいつも学生・歴史家・文化保存活動家らに案内されて美しい建物を
訪れた。わたしは自分の風貌をいいことにして、たいてい住人が住んでいるそれらの家屋
の中にまで入って行った。ジャカルタ市内トゥブッ地区のある家で、そこの家庭プンバン
トゥにインド料理の作り方を教えたことさえある。

毎週毎月と、出かけるたびに太線と普遍的でないコーナーを持つわたしの建築物コレクシ
ョンが増加していった。ところがその一方で、ブラックホールがわたしを見つめているよ
うな感覚が強まってきた。それらの場所にあるであろう種々のストーリーを吸い込んでし
まうミステリアスな虚無感覚が文化の欠如をわたしに悟らせたのだ。わたしは自分の風貌
と拙いインドネシア語で語るありとあらゆる理由を利して、かつて入ったそれらの建物を
再訪することにした。たくさんの扉がわたしの前で開かれ、その家のご主人から、あるい
はワルンの店番やら居合わせたひとたちから、驚くべき過去の話を教えてもらうことがで
きた。

< 1950年代の足跡 >
世紀のちょうど折り返し点にあたる1950年からストーリーが始まる。スカルノ革命が
結実した直後という状況に対する配慮などかなぐり捨てて、国家建設の名のもとに企画さ
れた巨大政府プロジェクトの舵をオランダ人工学士や建築家たちが握ってビッグビジネス
を展開した。

トロピカル風アールデコやヌサンタラ+ヨーロッパ型ハイブリッド、あるいはインディシ
ュスタイルなどの1920〜30年代に人気の高かったデザインがあちこちにあふれた。
オランダ時代のオランダ人建築家がインドネシアを再訪して、かつての建築様式を復活さ
せることも起こった。かれらの末期エンパイアスタイルはジャカルタのクバヨランバルに
その例を豊富に見出すことができる。

1948年から1957年までの十年間、オランダ人建築家の全員がインドネシアにあっ
た古今の様式だけを取り扱っていたわけでもない。ヘル・ボームやフメリフ・メイリンは
建築スタイルの融合に先駆的な歩みを付け加えた。かれらは南カリフォルニア的雰囲気を
漂わせる1940年代末期の幾何学的表現主義的な様式を盛り込んだのだ。モータリゼー
ション・ファーストフード・華麗なモーテルを世界に押し出す駆動力になった米国の戦後
精神と軌を一にする建築分野のスピリットがそれだった。この世紀の中葉に、モダンな建
築様式がジャワ島に興ったのである。そのスタイルはjengkiと命名された。[ 続く ]