「レトロネシア(後)」(2023年04月05日)

このモダントロピカル的試みの最初の成果は映画監督ウスマル・イスマイルの1956年
の作品Tiga Daraの中に示された。代表的なシーンは建築分野のイノベーションの頂点と
魅力あふれる未来を象徴する1956年ごろのクバヨランバル地区一帯のものだ。歪んだ
幾何学的ラインに味付けされたアールデコやインディシュスタイルは遊び心を満喫させて
そこに盛り込まれた。この黄昏のインディシュスタイルは後にもういちど革命にさらされ
ることになる。

この映画のオプティミズムは、繁栄と経済的自立を目指すスカルノが進めたジオポリティ
クスの軌跡がたどった不安定さを意に介さなかったように見える。1957年末にインド
ネシア社会はオランダの蒸発という変化に突入して行った。インドネシア共和国領内から
のオランダ人追放と全オランダ資産の国有化だ。オランダ人追放は社会的緊張を生み出し
た。社会の歪と分裂が意識下で破裂した。解決のないこのコンフリクトは、たとえばモフ
タル・ルビスの小説Sendja di Djakarta(現代綴りはSenja di Jakarta)に描かれた陰謀
の網に投影されている。獄中で書かれたこの暗いトーンの小説は酷薄な社会生活の状況を
暴露していて、スカルノのアジアアフリカ枢軸が約束している繁栄とチャンスという明る
い希望に背を向けたものになっている。

1957〜58年のオランダ人追放はまるで降って来たドゥリアンのように、一晩でミリ
オネアを作り出し、過去の遺物にされていた国際エリートを復活させ、新しい国家機関の
資金需要を助けた。新しい政治状況が暗黙裡に扉を開き、創造性の芽を揺り起こした。建
設請負業者たちがオランダ型の黄昏エンパイアスタイルに革命を起こしたのである。それ
までエリート建築家のみが率いていた建築デザインの世界が新しく且つローカルな担い手
の背に移されたのだ。

新たな認知を得た新リーダーたちはデザインとシンプルながらプレステッジをもたらすプ
ロジェクトを独占するようになった。ムルデカ時代の審美観に多少ともオリジナリティを
付加する偶像と見なされたもの、それがジェンキ様式だった。工学士・コントラクター・
アシスタント・一部建築家たち、そして時に施主自身が、ヴィラ・ホテル・オフィス・工
場・店舗住宅・教会、果ては墓地にいたるまで、競って建造物にジェンキ様式を付け加え
たのである。

それらの建築物は都市に現代的な魅力と前衛的な印象をもたらした。たいていのひとにと
って、今はアトム時代なのだ。インドネシアの大志が、現代化を成し遂げようとする自信
が、全国土の空を覆って鳴り響いていた。だがもっと先の時代に一足飛びして振り返った
とき、数世代後のインドネシア人は都市や田舎に作られたヴィラや山中の別荘を見捨てて
いた。15年間に及んだウルトラクリエーティブな時代の遺産が、各地に散在しているそ
れらの建物のなれの果ての姿だった。

< レトロネシア >
わたしの旅はレトロネシアプロジェクトを成就させた。専門家や、時には路上で出会った
だけのひとたちの助力によって、わたしは単にエレガントで奇妙な姿の建物を超えるもの
を見出した。それらの建物は埋もれた文化モニュメントだったのだ。土や灰にではなく、
無関心という空間の中に。

続々と出現した古い建物とそれにまつわる話をまとめるのに費やした7年間にわたる文化
の地層発掘ミッションは終わった。それはリーダーと冒険者そして公的機関の生を定義付
けるリスクへの挑戦と勇気の物語だ。高価な山間のヴィラを持って詩的なエリート生活を
送ったソロのバティック事業者たちにはじまり、オランダの自然科学アカデミーから変身
したLIPIのような学術機関やオランダ人農園主たちが1956年に設けたクラブに至
るまで。その文化を興したひとびとが去って長い歳月が経過したというのに、かれらが残
した珍奇さはいったいどうしたことか、依然として生き永らえている。たとえジャカルタ
という変わり身の早い都市の真っただ中であってさえもそうだ。1950〜60年代のイ
ンドネシアを特徴付けたそれらの建物は、コロニアル時代とその時代の建物をしのぐこと
ができなかった。しかしたとえその隆盛が短期間であったとしても、その時代を色濃く象
徴した文化は現代の芸術・意匠・創造性にインスピレーションをもたらしているのである。

時の流れと共にレトロインドネシアは「アーバン考古学101」になった。都市考古学は
へき地を訪れるような金のかかる探査を必要としないし、最新技術を駆使した機器を購入
したり、全天候型の高価な衣服も特別な訓練も必要としない。われわれの心を驚きと感激
で満たしてくれる何者かを見つけるための興味と意欲だけが必要とされているのである。
[ 完 ]