「ポンティアナッ(終)」(2023年04月05日)

どこの土地でどんな名前で呼ばれていようがこの幽霊たちに共通しているのは、死後の安
寧が得られず成仏できないために人間界に仇をなそうとする怨念に包まれた存在という特
徴であると言えないだろうか。それは人間の亡霊が持った怨念だ。

そうでなくて、人間としての生を経ないまま密林の高木に宿っていた自然界の霊的存在が
プンティアナッだったという観念も上で述べたとおりだ。

霊にも人間と同様、善人もいれば悪人もおり、あるいは個人主義を信奉する霊もいて、性
格のバリエーションが複雑なのは人間と変わらないように思える。人間に良いことをして
やろうという善霊がいる一方で、人間をひどい目に遭わせてやろうという悪霊もおり、ま
た人間のすぐ傍にいても何もしない無関心な霊もいる。

そうであっても、霊と人間の感覚的交流は人間の感受性に従って行われている。感受性が
鈍であれば背中におんぶされても何も感じないだろうし、あるいは霊の存在を否定する思
考と意識が強すぎて、感受性を鈍にさせている人間もきっといることだろう。


ポンティアナッの街を建設するために河口デルタの森林をシャリフ・アルカドリが率いる
集団が切り開いて入植したとき、高木にとまっていた霊たちは居所を失った。人間を敵視
する霊が地上を彷徨するようになり、人間はかれらをプンティアナッと呼ぶようになった。
それがどうしたはずみか、人間を憎んで仇をなそうとする出産時死亡女性の亡霊の呼称に
オーバーラップした。

人間に仇なす自然霊のイメージ化が行われたとき、ひとびとは美しい女の姿をそこに当て
はめた。なぜだろうか?これほどわれわれの興味と関心を強く引く心理現象はほかにない
のではあるまいか。日本の雪女が美女として描かれるのはどうしてなのか?殺される男の、
いや、この話を語ったり聞いたりする男たちの願望なのだろうか?醜女であっても、スト
ーリー展開には何の支障も起こらないように思えるのだが。

歴史家ナディヤ・カリマ・ムラティ氏はその著「一神教と女性のモンスター化」(202
2年)の中で、唯一絶対神だけを正しい霊的存在とする一神教がその定義に従わない諸霊
を善で正なる霊的存在の範疇から締め出すために、それらを悪霊に仕立て上げてモンスタ
ーのイメージを与えたと説いている。
「一神教は家父長制を基本観念として信奉させた。神性は男性的なものというコンセプト
が霊や自然に関わるローカルコンセプトに置き換えられ、ローカルコンセプトはそれによ
って闇の中に押し込まれた。」


ローカル霊を悪霊と見る視点への移行は女性と幽霊の関係付けと軌を一にするものだった
というインドネシア語解説がある。女性は男性よりはるかに死に近い位置にいる。たとえ
ば出産だ。出産時死亡の多さは女性が幽霊になることを当然視する傾向をもたらした、と
その解説は言う。

女性には死の機会が男性より多く与えられているという見解が的中しているのかどうかは
別にして、女性が怨念を持つ亡霊になりやすいこととそれとの関連性はもう一歩踏み込ん
で解き明かしてもらわなければならないように思われる。それよりも、女性のモンスター
化は原初的な一神教が生み出したものと見るほうが分かりやすい気がする。

インドネシアで一般に理解されているイスラム教の原理は、人間を善の道にいざなう神と、
人間を神に背かせよう(つまり善の実践を妨害し、破戒させよう)とする悪魔との間の対
立という二元構造をしているように見える。本質的にそれは神と悪魔の抗争なのだが、そ
の両者が四つに組んで土俵の上で相撲を取らず、悪魔は神が扱う人間にちょっかいを出し
て神が成果を上げることを邪魔しているという構図になっている。

要するに人間とはそのふたつのスーパーパワーの間で右往左往している頼りない存在なの
である。ところがその構造に「人間とは男である」というコンセプトが混ぜ込まれたとき、
悪魔は人間を神の道から遠ざけるために美女を使うことを始めた。そのとき、女性は悪魔
に仕えるモンスターにされたのである。

ただしこれは、日本の美女幽霊や美女妖怪に適用できる解釈ではあるまい。雪女や女郎蜘
蛛にセックスのご褒美付きで殺してくれるストーリーが語られないのは、この文化が持っ
た性教育・性倫理の規制を受けた結果なのだろうか?形而下のセックスを卑しくいやらし
いものと価値付ける思想は観念主義者ならではのものかもしれない。

それはともあれ、もしクンティルアナッが日本にいれば、はたしてあなたはかの女をナン
パするだろうか?[ 完 ]