「1950年代のジャワ人(1)」(2023年04月06日) 1949年12月に開校したヨグヤカルタのガジャマダ大学に初代の英語科教官として招 聘されたイギリス人ハロルド・フォースター氏が1952年から四年間の滞在中にジャワ 島と一部のヌサンタラ地域で見聞したインドネシア共和国の普段着の姿を一冊の書物にま とめたものが、1958年に「Flowering Lotus」というタイトルで出版された。イギリ ス人知識人の目に映った1950年代のジャワやバリの様子は、当今のインドネシアに比 較して見るなら実に隔世の感を禁じ得ない思いがする。 1950年に完全独立を成し遂げたインドネシア共和国の新設大学に奉職することが決ま ったとき、新しい住処に関する予備知識を持とうとして、かれはロンドン中の書店を回っ た。しかしオランダ領東インドと呼ばれる長い歴史を持ったインドネシアに関する英語の 書物はそのころ、満足できるものが何一つ見つからず、出会うものと言えば時代遅れの薄 っぺらな情報ばかりだった。 新生インドネシア共和国もまだあまりにも若すぎて、散発的な時事ニュースや論説に出会 うことはあっても、系統的にまとめられた知識を得ることは不可能だった。結局かれは奥 さんとふたりで、先入観の皆無な白紙としてジャワ島に移り住むことになったのである。 まず、これから住む第二の故郷になるべきヨグヤカルタの名称からして紛糾きわまりない ありさまになっていたことも、この若い国でエクスパットとして暮らすかれに何やら挑戦 めいた印象を与えることになった。 Jogjakartaが当時の公式綴りだったが、Djokjakartaあるいはジャワ語のNgajogjakartaな ども咲き乱れ、地元民もヨクヤ、ジョクジャ、ジョクヤなどを入り乱れて使っていた。オ ランダ人がオランダ語でJogjakartaと書いてヨグヤカルタと発音していたように、ラフル ズもHistory of Jawa(1817年)の中でYug'ya Kertaと書いていたのだから、いったいどこ のだれがJogjaというオランダ語綴りをジョクジャという英語発音で広めたのだろうか。 フォースター夫妻はオランダの定期航路客船でジャカルタに上陸した。到着は朝で、タン ジュンプリオッ港からジャカルタ市内のホテルに移動した。数日間をそこで情報収集と気 候に身体を慣らすことに費やしてから2時間のフライトでジョクジャ入りしようと思って いたのと裏腹に、翌日午前6時40分発の汽車でジャカルタからジョクジャに向かうよう アレンジされているのを知ってがっかりした。 特に反乱分子が汽車に攻撃を加えることがしばしば起こっていたから、ジャカルタの西洋 人は一様に汽車でのジョクジャ入りを不可能と決めつけていた。襲撃が起こったら列車ダ イヤはストップしてしまう。たとえ自分の乗っていない汽車が襲撃されたとしても、自分 が乗ろうとしていた汽車は運行を停止してしまうのだから。 しかしヨーロッパ人たちがあたかも毎日起こっているように物語った事件など道中にまっ たく起こらず、反対に夫妻は違うことでたいへんな目に遭ったのだが、それは後の話。 ふたりがジャカルタで感じた印象はひどいものだったようだ。ホテルは広い庭に面してバ ンガロー風の部屋が並んでいるスタイルで、庭は干し物で満ち溢れていた。ホテル自体が 悪臭を放つ運河のすぐ近くだったそうだから、鉄道駅への便も併せて考えるならそれはか つてバタヴィアの最高級ホテルとして名を馳せたオテルデザンドだったのかもしれない。 かれに与えられたジャカルタでの時間はその一日だけであり、ふたりは必要な手続きを行 い、先住の西洋人たちから生活に関する諸情報を聞いた。そして一日が終わり、ふたりは ホテルに戻った。[ 続く ]