「ヌサンタラのサンバル(1)」(2023年04月10日)

口の中が火のように燃え、涙が流れ、心臓が激しく脈打つほどの苦しみを受けることも稀
でないにもかかわらず、とてつもなく美味しくて、食事にこれが付かなければ食事の値打
ちが半減してしまうものがインドネシア人のオブセッションの中にある。インドネシア人
にとってサンバルは比類なく「美味しい食べ物」であり、それが食事の皿に見当たらない
と不完全な食事という物足りなさを味わうことになってしまう。

一部のサンバル愛好者は言う。サンバルはthe crown of the plateだと。つまりお皿の上
に置かれる王冠なのだ。道理でナシチャンプルはたいてい最後にサンバルが置かれるよう
に思われる。盛装が終わってから王冠をかぶるのがオーソドックスな手順ではなかったろ
うか。

インドネシアの食堂は規模の大小を問わず、サンバルを必ず用意している。インドネシア
人の家庭には貧富の差を問わず、台所に必ずトウガラシやその他の食材をすりつぶすため
のcobekという石でできた器具が置かれている。言うまでもなく、サンバルは素材をすり
つぶして作るのだ。チョベッは石の台を指し、手に持って食材をすりつぶすために動かす
ものはulekanと呼ばれる。ウルカンは石製のものもあれば、木製のものもある。


ほとんどのインドネシア人はサンバルのない人生を想像することができない、とも言われ
ている。ひとびとは食事の際に必ずサンバルがあることを期待する。もしもサンバルが手
に入らなければ、生の赤トウガラシをすりつぶしたものでも、生のチャベラウィッをその
ままでもいいから、サンバルの代替になるものを求める。

サンバルとは、さまざまなスパイスあるいは日本語で薬味と呼ばれるようなものとトウガ
ラシをつぶして練り和えたものだ。トウガラシの辣味だけでは得られない種々のスパイス
の味覚がそこに混じり合って奥深い辣味を生み出している。

外国人はたいてい最初、その辣味のすさまじさに打ちのめされるために、「辣」の一味に
負けてすべてがただ辣いだけという印象しか持てないかもしれない。しかし辣に対する受
容能力が高まるにつれて、それまで辣の陰に隠れていた種々のスパイスがもたらす深みに
気付くようになるのではないだろうか。


日本で「辣」を看板に掲げた料理を作る料理人たちは、どうもその辣の根源たるトウガラ
シだけに頼って辣を売る活動を行っているような気がしてならない。これはわたしの推断
であり、決して事実を知っているわけではないので、誤っているかもしれない。しかしわ
たしの口と舌はたいてい骨ばった辣味を感じるばかりであり、肉付きのあるふくよかな辣
味を感じたことがないのは事実なのである。

字義通りの論理から行けば、辣味はトウガラシから抽き出せばそれで正しいことになるか
ら、わたしの推断しているような活動が法的あるいは人道的におかしいと言っているので
は決してない。わたしはわがままなおねだりをしているのである。辣に他の素材を加えて
深みを持たせたものを味あわせてくれるサンバルのようなもののほうが、われわれの口と
舌にはるかに大きな豊かさを感じさせるのではあるまいか、と。


インドネシア人にとってそれほど重要な食べ物であるというのに、サンバルを主菜と考え
るひとはまず見当たらない。これは他の食べ物を美味しく食べるための味覚の補強役であ
り、飯に美味しさを与える連れ添いであり、満足できる食事を成り立たせてくれる裏方だ
と見なされている。

わたし自身も、まだサンバルの辣に親しみを感じられなかったころは、それを単なる握り
寿司のワサビや刺身のツマ、あるいは熱いみそ汁に投げ込まれるネギ葉のみじん切りのよ
うなものという印象を抱いていた。ところが段々とサンバルに対する親近感が強まって来
ると、サンバルは立派なひとつの料理ではないだろうかという意識の転換がわたしに起こ
ったのである。

サンバルは日本語の薬味の定義にぴったり合致しているのだが、混ぜ合わせられる素材と
それを作るための手間暇は薬味という言葉の感覚をはるかに超えているのではないだろう
か。わたしには、サンバルはたとえば日本の七味唐辛子のようなものとはまるで異なる概
念が用いられているように思えてならない。[ 続く ]