「ヌサンタラのサンバル(2)」(2023年04月11日)

オランダ人はヌサンタラの食事をkoud eten(英語でcold food)と称した。確かにヌサン
タラの料理は冷めた状態で食べるもののほうが多いのかもしれない。そこにサンバルの持
つ別の意味が浮かび上がってくる。温かい・熱いという温度感覚がトウガラシあるいはサ
ンバルによって代替されるのである。口に入れるときに料理そのものが熱くなくても、口
の中ではトウガラシによって熱さの感覚が興っているというメカニズムがそれであるよう
に思われるのだ。


一般的に言って、暑い地方で辣味が好まれている傾向が観察されている。それに関してわ
たしがインドネシア初心者だったころ、先達はこんな解説をしてくれた。辣いものを食べ
ると汗をかく。発汗は体温を低下させて涼しい皮膚感覚をもたらすので、イ_ア人はそれ
を目的にして辣いものを食べているのだ。

しかしわたしは素直にその論理にうなずくことができなかった。ただでさえ暑くて、肌が
じっとりしているのだ。そこに加えて体温をもっと高めて汗をたくさんかき、出てきた汗
が蒸発するのを待ってやっと得られる涼しい皮膚感覚を求めるという深謀遠慮を普通の人
間が本当に行うだろうか?そんなことを考えて行動に移す人間は聖者か破れかぶれの人間
のどちらかではあるまいか。普通の人間はさらに体温を高めて汗をかこうなどと考えず、
そのまま風通しの良い木陰に自分の身を置くほうを選択するだろう。

どうやら科学者の中にもその聖者説を信奉するひとびとがいたそうだが、乾燥した土地な
らいざしらず、湿度の高い土地ではそんなことをしても涼しい皮膚感覚など得られないと
いう結論が今では普通の理解らしい。


別の説によれば、トウガラシやいくつかのスパイス類は防腐機能を持っているため、それ
を使って料理を作れば健康面と経済面に良い効果がもたらされるという要因に由来するも
のだそうだ。そうであるなら、一家の主や料理人がその効果を追い求め、大多数を占める
他の構成員はその崇高なる目的に服従し、いやがおうでも辣味を口の中に入れさせられて
いたという印象をわたしは抱いてしまう。

熱帯のひとびとの嬉々としてサンバルやトウガラシを口にする姿を肌に感じている外国人
には、かれらが意志・意欲を持ってそれを行っていることがあまりにも明白に感じられる
ことから、そのふたつの印象の間に感じられる齟齬を納得するのが困難になる。

もちろん、辣味が人間にもたらす習慣性や依存性が現代インドネシア人をして、かれらが
嬉々として辣味を追い求める心理姿勢を作り上げてしまったという可能性を否定すること
もできないにせよ。


この問題に関してインドネシア人自身が分析した心理姿勢の中に、かれらが辣味を追い求
めるのはヴァイタリティを実感するためだという解説があった。その具体的現象の中に、
発汗も含まれている。

平均的なインドネシア人にとって、汗をかくのはごく当たり前の日常的生理現象だ。毎日
汗をかいている環境下で汗をかかない自分を見出したとき、かれらは自分の健康状態が悪
化していると判断する。そのとき発汗という現象は健康状態を判定するバロメータになっ
ている。おのずと、発汗=善という価値観がそこに出現する。

自分が生きて活動している正常な状態は発汗や心臓の動悸、体温の上昇などが伴われるも
のだ。そのとき、自分の内部に活力があり、それが自分の生を成り立たせているという実
感がもたらされることになる。自分が正常に生きているということをそれが実感させてく
れるということなのだろう。

これ以上説明する必要はもうあるまい。トウガラシを食べれば、同じような生理現象が再
現されるのだから。わたしはこの説に一票を投じたいと思う。嬉々としてトウガラシを口
にするかれらには、やはりなんらかの積極的肯定的価値観が作用を及ぼしていないはずが
ないとわたしは思うのである。[ 続く ]