「1950年代のジャワ人(3)」(2023年04月11日)

線路はチルボンで分岐して、ジョクジャ行き列車はジャワ島を縦断する。ジャワ島北岸か
ら南岸に向かって内陸高原部を通過するのだ。反乱分子武力襲撃のリスクはそこにあった
から、武装兵士の一団が車内に乗り込んできた。

第二次大戦後ギリシャで7年暮らしたかれは、そのリスクを怖がっていなかった。このリ
スクはたとえば旅行中にタイヤがパンクする程度のものでしかない。ギリシャ共産主義者
の反政府武力襲撃は、政府軍の警備が付くとかえって先鋭化する。強盗団の列車襲撃とは
趣が異なっているものなのである。かれはむしろ、警備部隊が乗り込んだことのほうを怖
れたようだ。


この旅は氷のリスクも襲撃のリスクもすべて杞憂に終わり、汽車は日没後のヨグヤカルタ
鉄道駅に無事滑り込んだ。ジャワ島では日没も一年中だいたい同じ18時半から19時と
いう時間帯に起こる。

大学職員が緑色のプリマス車で迎えに来て、夫妻をガルーダホテルに連れて行った。ジョ
クジャのトップホテルの一番良い部屋を予約してあるという職員の話を車の中で聞かされ
たから、これでジャカルタ到着以来の惨憺たる体験もやっと終わりを迎えるだろうという
明るい期待に包まれて、ホテルに到着した夫妻はチェックインカウンターの前に立った。


一等室は全部ふさがっている、とホテルマネージャーは言う。大学職員が抗議したが、明
日のセレモニーに招かれたVIPを受け入れるので手一杯なのです、とマネージャーは説
明した。「今夜一晩だけ裏の二等室にお泊りいただいて、セレモニーが終われば一等室は
いくらでも空くから、明日一等室に移るということでいかがでしょうか。」

明るい期待を打ち砕かれたかれには、もうノーと言う気力もなかった。しかし考えてみる
なら、この種の行き違いはなにも1950年代に限ったことでなく、そのようなインドネ
シアのエバーグリーンは今でも続いているのではあるまいか。


案内された二等室は裏にある厨房の対面で、バスルームが付属していない。共用バスルー
ムは近くだったものの、そこへの往復は公共スペースを通らなければならない。ともかく
汗を流したいかれは、そこへ行った。

狭いタイル張りの浴室の一方の角には石造りの水槽があり、水が溜まっていて、大きめの
空き缶が置いてある。この水槽に身体を浸けてはいけないという話は既に聞かされていた。
別の角には壁の天井に近い位置にアルミのタンクが取り付けられていて、シャワーがある。
筆者はこのスタイルを、ジャワにしかないダッチバスルームだと書いている。イギリス人
には到底満足できるものでない、とも。

シャワーは錆が目立ち、タンクはクモの巣で覆われていて、長期にわたって使われていな
い代物であることがすぐにわかった。そこに水を入れてシャワーを使おうとだれが思うだ
ろうか。かれはふたたび決意しなければならなかった。空き缶で水槽の水を汲み、それを
頭からかぶったのである。


かれの妻もそのバスルームのプロセスを終え、リフレッシュしたふたりは着替えをして食
堂へ行った。リフレッシュした感触は十分に得られたが、身体が清潔になった感じはしな
かった。ともあれ、空腹のふたりは食堂へ急いだ。

食堂の雰囲気も、薄汚れているつぎはぎだらけの大広間だった。シミがなくて継ぎのあた
っていないクロスのかかっているテーブルを求めてふたりはさまよった。ウエイターは裸
足で制服を着ておらず、一様にペチをかぶっている点だけが制服と言えた。

ウエイターはその夜の定食を、コンソメからフルーツのデザートに至るまで、すべてを一
度に持ってきてテーブルに並べた。料理はすべて冷めていた。コンソメ・白飯・野菜の炒
めもの・・・

その日一日の体験がかれの妻の忍耐力に大穴をあけてしまったのだろう。奥さんは並べら
れた冷たい料理を前にして、さめざめと泣いたそうだ。[ 続く ]