「1950年代のジャワ人(4)」(2023年04月12日) 翌日は結婚記念日だったから、一日怠惰に過ごそうと考えて、ベッドでゆっくりし、朝食 を済ませてから部屋でまたダラダラしようと計画した。しかし太陽が昇って気温が上がっ てくれば、二等室のその部屋でダラダラするのは無理だ。かれは部屋を替えてもらうため にマネージャーに談判しに行った。 そこに昨日の大学職員がやってきて、「さあ、スルタン王宮へ行きましょう。」と言う。 いったい何が予定されているのかまるで知らなかったかれは、「今日、大学新学期開始の セレモニーがあり、そこで新任の英語科教官のお披露目がなされることになっているのだ」 と聞かされておどろいた。かれが泊まるはずの一等室を占拠したVIPたちはかれのお披 露目を見るためにやってきたひとびとだったのである。 そのようにして、ハロルド・フォースター夫妻のジャワでの四年間がスタートした。ヨグ ヤカルタは清教徒的な町であり、バーもナイトクラブもない。厚い木製の板をシャッター にして店の入り口を閉ざし、マリオボロ通りの商店街が夜9時に閉店すると、町は夜闇の 中に静まりかえる。 酒を飲んでダンスをするのは不道徳と見なされていた。オーストラリアのサッカーチーム を歓迎するためにホテルでダンスパーティーを催そうという企画がなされたのだが、開始 時間の前からプリブミの若者たちがホテルのまわりに集まって来て外をうろついた。かれ らは不道徳な連中を石もて打とうと考え、ポケットに石をしのばせてホテル周辺に不穏な 空気を漂わせたから主催者は最後の最後になって翻意し、パーティーはお流れになった。 かれが見聞した1950年代のインドネシア人の姿はその書物の中にたくさん収められて いる。そのころから現在まで70年もの時間が経過すれば、きっと3〜4世代の交代が起 こったにちがいあるまい。イ_ア人はそんな昔のものから今のような人間に変化したのだ と思わせるものもあれば、今でもそんなものだよ、と思われるものもある。 たとえば、かれはこう書いた。インドネシア人は肉欲的で不衛生な西洋式キスをしない。 かれらはもっと洗練された嗅覚センスを好み、たいしてロマンチックでないスニフキスと 呼ばれるもののほうを好んで行う。異性の肉体的魅力の中に良い香りの肌という項目があ り、そして多くのひとにとってこの項目は重要で高い評価を持つポイントになっている。 西洋人が公共スペースではばかりもなしに行うキスは、インドネシア人の目から見るとき わめて淫らでふしだらなものに映っている。 しかしその二十年後にわたしが見聞したインドネシアの中に、スニフキスなどというもの はその片鱗すら見つからなかった。そのころのわたしの暮らしに密着していたイ_ア人の 多くはブタウィ・スンダ・ミナン・マナドなどであり、ジャワ人はあまりおらず、いても 密着というレベルでなかったことがその原因をなした可能性は高いのだが。 1950年代のジャワ人はかれに次のような印象を与えた。 夫妻が借家に引越したとき、隣人たちが挨拶に来るだろうと思って数日間待っていたが、 ひとりもやって来ない。新参者が挨拶に出向くのだと聞かされたので、夫妻が隣人宅を訪 問した。その公式表敬訪問に打ち解けた態度で親近感を示した家はひとつもなかった。以 後もふたりは近所付き合いの中で、氷のような感情を示し続ける隣人たちの頑なさに疲れ 果てた。何をするにつけても、隣人たちとの触れ合いは痛みを伴った。ジャワ人はどれほ ど多量の喜怒哀楽を抱こうとも、感情を表出しないものなのだ。 挨拶のために訪問すると、その家の主人が出てくるまで10〜20分ほど応接間に座って 待たされる。その家の主人が訪問客に敬意を表するために最良の衣服に着替え、姿を整え ていることをそれは意味している。[ 続く ]