「1950年代のジャワ人(7)」(2023年04月17日)

ムスリムの必須事項である割礼は、男児は中部ジャワで13〜14歳、東部西部ジャワで
は7〜8歳のときに行われる。女児の場合はもっと小さい時期にほんの小さい処置が行わ
れる。女児は初潮が起こるとその7日後に成人の祝としてスラマタンが行われる。


断食月が終わるとイドゥルフィトリの大祭が行われる。アラブ語のイドゥルフィトリはジ
ャワ語でLebaranと呼ばれている。イドゥルフィトリを迎えるに当たって、ジャワ人は墓
参りをする。先祖の墓が遠かったり、墓参に十分な資金がないときは、四辻に香と供物を
置いて墓参の替わりにする。

ジャワ語のLebaranという語はムラユ語源のインドネシア語発音と違っている。
ムラユ語源のインドネシア語発音はレバランで、「広い」の名詞形だ。
ジャワ語発音はルバランで「終わり」を意味し、断食期間の終了を指している。

極東のある国では違う発音が標準にされてしまったように見える。インドネシア語を解し、
インドネシア人との会話でルバランと発音しているひとですら、日本人同士の会話では誤
った発音に従っているのではないだろうか。どうしてシンプルに生きようとしないのだろ
う。従順さが絶対善にされてしまった社会は社会自体が善でなければならないのではない
か。善悪の混在している社会でひたすら従順に生きることを選択すると、その人間の生き
様は悲惨なものになりかねないように思われる。もちろん選択の自由があるにせよだ。

いったい誰が間違い発音を広め、どうして間違いが訂正されることもなく標準化されてし
まったのだろうか?この種の間違いは決してこれだけではないとわたしには思えるのだが、
そんな間違いだらけのインドネシア語理解をしながら、インドネシア語は容易な言語だな
どとよく言えたものだ。


ジャワ人にとってはあらゆるものに霊があり、日常のあらゆるものが神秘的なパワーを持
っていて、そんなパワーを集中と自己抑制によって自分の内部に取り込むことができると
考えられている。自分の祖先の霊は自動的に自分の中に継承されており、自分はそれに強
く影響されている。

かつて偉大な業績を残した偉人のパワーは衰滅することがなく、その名前と誕生日は特別
のオーラを持ち、古代遺跡・巨石・ブリ~ギンの巨木などがそうするように、目に見えな
い振動で人間を打つ。木曜日の日暮れ、そんな巨木の根元に供物が置かれる。日没は新し
い一日のはじまりなのだ。

死者の霊は徐々に滅していく。葬式は死のプロセスのはじまりだ。暑い季節に亡くなると
翌日には埋葬されるために、縁者や友人たちにとってはあわただしい通夜が一晩だけ営ま
れる。遺体は頭を北にして低いテーブルに寝かされ、家族が集まると庭に運ばれて、花を
浸した水で7回洗われる。顔に粉がふりかけられ、口・鼻・目・耳に綿が詰められると身
体はカファン布と呼ばれる白い綿布でぐるぐる巻きにされ、その巻き物は頭頂と足先を含
めて7ヵ所で縛られる。

その状態で家の広間に寝かされて、祈りの言葉と良い香りの中で一夜を明かす。死去を知
った友人知人たちがやってきて、最期の別れを告げる。翌日の埋葬まで付き合うひともい
れば、しばらくいただけでそのまま帰宅するひともいる。

お棺が埋葬のためにその家を出発するとき、お棺を運ぶ数人のひとたちはその家の表で止
まり、お棺を高く持ち上げる。そのときに死者の子供や孫がその下を三回、行ったり来た
りする。

墓地が歩いて行ける距離なら葬列の徒歩行進が行われ、あまりにも遠ければ乗り物が使わ
れる。墓地に着くと墓穴に下ろす前に縛り紐が解かれ、顔を露出させる。穴に下ろされる
と、身体は右を下にしてメッカの方角に向けられ、墓穴の壁にもたれるかっこうで横たわ
る。上から花びらがまかれ、土がかけられる。土が盛り上がったら、頭の部分と足先の部
分に木製の暫定的な墓標が立てられる。[ 続く ]