「1950年代のジャワ人(12)」(2023年04月25日)

日蝕や月蝕が起こると、バタラカラを驚かせて太陽や月が一刻でも早く戻るようするため、
ルスン、クントガン、台所の鍋類などを叩いて音を出すことが昔から行われてきた。特に
ルスンを籾突き棒で打つと効果があると考えられてきたものの、ルスンを使う家庭は大き
く減少してしまったから、昨今は村落部でも鍋釜を叩く家庭が一般的になっている。

バタラカラは人間にそんな害悪をもたらすのだから、ジャワ人はバタラカラが一刻も早く
天空から立ち去ってくれることを望む。村に盗賊団がやって来ると、戦闘技ではとてもか
なわない村人も一致団結して全員が立ち上がり、鍋釜を打ち鳴らしながら盗賊団に向かっ
て行く。大勢の武器を持たない人間集団が総出で大音響を立てて詰め寄ってくれば、盗賊
の心理は普段と異なるものになってしまう。そんなシーンは何やら、うちわ太鼓を大勢が
叩いて「怨敵退散」を唱える姿にわたしの脳裏でオーバーラップしてくる。ヌサンタラで
はそれが効果を持ったのかもしれない。一方、極東の国では確か皆殺しにされるのが普通
だったと思うが、間違っているだろうか?


1983年6月11日午前11時29分に始まった皆既日蝕のとき、オルバ政府はバタラ
カラを信じる国民に対して、日蝕の間は家の中に入って外に出ないようにせよと指導した。
特に日蝕を絶対に見てはいけない。そんなことをすると目がbuta(盲目)になると説明さ
れたのだが、国民の中に「ブトに変身するぞ」と脅かされたように感じた者がはたして皆
無だったかどうか?

しかしバタラカラを怖れ日蝕に怯えたのはどうも庶民ばかりだったような印象だ。オルバ
政府の高官たちの中で、家にこもった者はひとりもいなかった。どうやら古代から支配階
層はバタラカラなど何とも思っていなかった節がある。


古マタラム王朝のムダン王国創始者ンプシンドッが西暦929年7月24日にマランのト
ゥルヤン石碑のオープニングを行ったとき月蝕が起こったものの、そんなものが王国行事
の進行に支障をもたらすことはなかった。

1248年から1268年までシゴサリSinghasari王国を統治したウィスヌワルダナ王が
ムラマルルン石碑の建立式典を西暦1254年に行った際、月蝕が起こった。偶然だろう
か、碑文の中にシヴァの名前が刻まれている。

古マタラム王国の王都が置かれた中部ジャワ州のクドゥで発見された西暦843年の年号
を持つスチェン石碑も月蝕の夜に式典が営まれた。おまけに月蝕という言葉が碑文の中に
刻まれていて、ジャワ島における最古の記録になっている。

ジャワ島王国史の参照資料として最右翼と目されているヌガラクルタガマは西暦1365
年の9〜10月のある日に完成した。ンププラパンチャがそれを書き終えた夜、月蝕が起
こった。

ジャワ人の宇宙観に特別な位置を占めている日蝕月蝕に対して、支配階層が示す態度は庶
民層のものと大きく異なっていた。その現象を見るかぎり、庶民が持たされた観念も支配
階層に完全に支配されていた可能性が感じられる。


インドネシア人がだれでも知っているブトのひとりがbuto ijoだろう。全身が緑色をして
いるので、ブトイジョと呼ばれている。視覚化されたブトイジョは、巨大な体躯、カッと
見開いた大きな目、野生のままの長い頭髪、口からこぼれ出た牙のような歯並をしていて、
見る者に恐怖をかきたてる。しかし身体を人間並みの大きさにすることも自由自在だ。時
に、腕を四本持っている姿も描かれており、人間には対抗し得ない能力を持つ存在という
意味が暗示されているように思われる。

一般に言われているブトイジョの性質は、子供をさらって自分の奴隷にしてこき使い、最
後に食ってしまうという単純明快なもの。物語では往々にして、夜の真っ暗闇の中に出現
するシーンがよく描かれているのだが、昼日中に登場する話もあって、時間帯に拘束され
るような者ではないように思われる。


日蝕月蝕を起こすバタラカラをブトと呼ぶひとがいることは上記したが、そのブトをご丁
寧にブトイジョに特定化するひとまでおり、ミクロレベルでいろんなひとから話を聞いて
いると何やら支離滅裂な印象を受けることになりそうだが、なぜそんなことになるのかは
お察しいただけると思う。[ 続く ]