「イエス・キリストはTuanかTuhanか?」(2023年05月02日)

ライター: 文司、ジャカルタ在住、レミ・シラド
ソース: 2003年3月1日付けコンパス紙 "Tuhan 'Isaj Elmeseih" 

命題に関わる文法構造の誤りがもたらした非現実的な表現によって形成された意味と、そ
れに対して誤った前提が引き出した結論への推論を正当化する結果、論理内で理性の逸脱
が起こることは大いにあり得る。アラブ語の哲学用語では、この知的作用にmugalatahと
いう術語が与えられている。

キリスト教の聖書がはじめてムラユ語に翻訳されたのは1663年にブラウウェリウスが
成し遂げた成果だった。ポルトガル語の語彙がたくさんその中に使われた。Almaseh Isa 
ibni Maryamという言葉はTuan Jesu Christoを指している。もっとあとになって、173
3年に上流ムラユ語への翻訳がライデカーによってなされ、アラブ語の語彙がたくさんそ
の中に入った。そのとき、Isa AlmasehはTuhan 'Isaj Elmeseihに変わった。

綴りが変化したことで、人間的な前提を持つTuanから神性を根底に据えるTuhanへの変化
が理性の中に起こったことをそのできごとが明瞭に示している。


ラフルズの時代、1814年にロンドンミッショナリーソサエティのウィリアム・ミルン
がアブドゥラ・ビン・アブドゥルカディル・ムンシに、ライデカーのその翻訳を修正する
ように頼んだ。というのも、すべてのヨーロッパ語でイサアルマセは人間的コンテキスト
を持つTuanの語が使われているからだ。ポルトガル語はSenhor Jesus Christo、オランダ
語でHeere Jezus Christus、フランス語Seigneur Jesus Christ、イタリア語Signor Gesu 
Cristo、英語Lord Jesus Christ。それらのすべては聖書のギリシャ語原典に書かれてい
るKyriou Iesou Xristouに従っているのである。

TuanからTuhanへの変化はまた、サンスクリット語がカウィ語になったときの単数主格に
起こった現象に関連付けることもできる。asut, empas, silakanなどの語に/h/が添えら
れてhasut, hempas, silahkanになったのだ。しかしもっと奥深くまでこの問題を眺める
なら、TuanがTuhanになったできごとはたいへんに議論を呼ぶ事件だったのである。なぜ
ならそれは原理的に、キリスト教会が二派に分裂する原因となった、神学上で互いに対立
しているふたつの基本概念に関わる問題だったからだ。

まずマタイ伝1:1に記された系図にもとづいて、イサアルマセはアブラハムの子である
ダビデの子であるがゆえに人間として位置付けられる。次いでヨハネ伝1:1の形而上論
にもとづいて、パレスチナやレバノンのキリスト教徒が用いるアラブ語のrohullahならび
にkalimatullahにイサアルマセは該当しているため、キリスト教徒はその人物を神性を持
つ者として受け入れている。キリスト教徒が使うインドネシア語では、アルマセイサイブ
ニマリヤムをTuhan Yesusと呼ぶようになって当然だ。

もちろん、アブドゥラ・ビン・アブドゥルカディル・ムンシはライデカー訳とそれに対比
されるブラウウェリウス訳、1651年のルカム訳、1629年のルイル訳などに関する
修正を行った。しかしその後で、キリスト教聖書の中は現実に使われている言葉に合わせ
て直されている。

アブドゥラ・ビン・アブドゥルカディル・ムンシの修正がなされたとはいえ、19世紀に
行われた翻訳作業では、1835年のエムデ訳や1875年のクリンカート訳のいずれも
がライデカーの意志を継いでイサアルマセをTuhanと呼んでいるのである。


実はTuanの書記素からTuhanの音素への転換については、ふたつの理解が現代の標準解釈
になっている。そのひとつは宣教師フランシスコ・ハヴィエル(訳注:日本語では一般に
ザビエルとされている。インドネシア語ではFranciskus Xaveriusと書いてフランシスク
ス・サフェリウスと発音される)が行った努力に関連付けられたものだ。

1445年、かれはマラカのムラユ人に「主の祈り」「クレド」「アヴェ・マリアの祈り」
をムラユ語に翻訳させ、それをマルクの民衆に教えて唱えさせた。ところがやっかいなこ
とに、ジェズ・クリストを指すTuanのマルク人の発音は常にTuangだった。その次の世紀
になって、アンボンでムラユ語を教える際にTuanはTu Hanという二音節にして書かれるよ
うになった。


スーフィーの世界で最初にTuhanの語を使ったのはメッカのベランダと呼ばれるアチェの
イスラム学者ハムザ・ファンスリだった。個人主義的なかれの思想はシェッ・ヌルディン
・アラニリをはじめとするアチェのウラマたちに拒否され、かれの作品はスルタンの命令
で焼却された。「イバハティの詩」の中に次のような言葉が見られる。
Rahman itulah yang bernama wujud
Keadaan Tuhan yang sedia ma'bud
Kenyataan Islam Nasrani dan Yahud
Dari rahman itulah sekalian mawujud