「ジャワ人の起源(1)」(2023年05月04日)

ジャワ人の起源に関する論説がある。標準化されたインドネシア史からちょっと外れてい
るように思われる内容だが、標準インドネシア史が黙して語らない部分を垣間見せてくれ
るので、実に面白いと言えば叱られるだろうか?

インドネシアの歴史に興味をお持ちの読者には、何か面白いものを見いだしていただきた
いと希望するものである。


さて、ジャワ島に人間が住むようになってからどれほどの期間が経過したのか分からない
が、文献的にはアジ・サカ物語がジャワという土地を示しているもっとも古いものだと見
られている。ジャワ年代記に記されているMendang王国建国史にはジャワ島に人間が住み
始めてから5百年後にムンダン王国が興ったことが述べられていて、人間の移住の波がジ
ャワ島を襲ったことを推測させてくれる。

ジャワ島の地理的状況に関するヒンドゥ古代資料に、Nusa Kendangはインドの地の一部を
成していたが、1190年前に起こった大洪水によって陸地から切り離されてしまったと
いう叙述が見られる。ヌサクンダンはジャワ島を指しており、インドシナからマラヤ半島
にかけての一帯とその西から南にかけての土地が海水のために分離したできごとを語って
いるように解釈できる。

その大洪水は世界各地で古い昔に書かれた書物の中に記されたものと同じできごとである
可能性が感じられ、現代科学はそれをアジア大陸とオーストラリア大陸をつなぐインドネ
シアという地峡が海面の上昇によって島々に分断されたという理論で説明している。


ジャワ島はそのとき9つの島に分裂した。その後起こった火山の噴火と地震によってその
9つの島がジャワ島というつながった土地を形成した。ジャワ年代記は西暦296年にジ
ャワ島の各所で火山が噴火し、地面が大変動を起こしてひとつの大きい島になったことを
物語っている。

西暦444年にはジャワ島南岸で激しい地震が起こり、Tembiniと呼ばれていた地域でヌ
サバルンとヌサカンバガンがそれぞれ島に分かれた。1208年にはスマトラとジャワの
間にスンダ海峡ができて分離し、1254年にはHantaraと呼ばれていた地方でマドゥラ
が島に別れた。1293年にはバリがジャワから分離した。


別の古文献は、インドのコロマンデル地方のクリンを統治していたアスティナ王国のアル
ジュナ王が民衆を連れてまだ人間が住んでいないジャワに移住したストーリーを記述して
いる。西暦紀元前450年ごろに行われたその植民によってジャワに人間の居住が始まっ
たと言うのである。そのときの移住先がどこだったのかはまだ明瞭になっていないが、バ
ンテン州セランの近辺ではないかという意見が出されている。

しかしこの植民はうまく行かなかったらしく、獰猛な野生動物の襲撃に頻繁にさらされた
ことから、定住をあきらめて故国に帰る者が少なくなかったという話だ。もちろん全員が
帰ったという記述にはなっていない。この集団はヒンドゥ教のシヴァ神を信仰するひとび
とだった。


マラン王宮起源誌という古い文献によれば、西暦紀元前350年ごろ、デカンの王の命令
でインドのコロマンデルからジャワに向けて植民者が送り出された。男2万人、女2万人
がコロマンデル海岸から船で出発した。かれらはアニミズム信仰者だった。この移住プロ
ジェクトの実行を指揮したのはアジ・ケレルだ。

ヌサクンダンに達したアジ・ケレルは、島の中央高原部が緑のジャングルであり獰猛危険
な野生動物のハビタットである一方、低地平原部にはジャウィと呼ばれる植物が広範に繁
茂しているのを見た。かれはこの島のどこにでもたくさん見られるジャウィにちなんで島
自体をジャウィと呼んだことから、それがジャワという地名の起源になった。アジ・ケレ
ルが率いた4万人の植民集団が上陸したのはスラバヤ港に近いスマンピルではないかと考
えられている。[ 続く ]