「ジャワ人の起源(2)」(2023年05月05日)

何年か後になって、デカンの王は植民の様子がどうなっているか、土地の肥沃さはどうか、
といった調査のためにヌサクンダンを訪れるよう廷臣に命じた。その廷臣が植民先の土地
に着いたとき、かれが見たのはたった40戸で構成されている寂れた小規模な集落だけだ
った。

植民者の多くは野生動物の餌食になり、また逃亡する者もたくさん出た。がっかりした廷
臣は本国に戻って、ありのままの事実を王に奏上した。

王はふたたび植民プロジェクトを命じた。第二波も男女それぞれ2万人だったが、農具を
完備させ、更に6ヵ月分の食糧を持たせて送り出した。逃亡者が出ないように植民者集団
4万人を差配する首長を任命し、カンノ王という名称を与えた。この4万人もアニミズム
を信仰するひとびとだった。

この集団はふたたびスマンピルに上陸して生活を始め、そのうちにスラバヤからマドゥラ
にかけての沿岸部に続々と部落が誕生した。ガウ、ラウハギッ、デワラワティ、マンダラ
カ、ガマルタ、マドゥラという名前がそれらの部落に付けられ、各部落は部落長に統率さ
れる形をとった。

歳月を経てそれらの部落が大きくなると、内陸部を開拓する者が現れた。こうしてジャワ
島に人間の居住が広がったというのがこのストーリーだ。


紀元前100年ごろ、インドからまた大勢の人間がジャワを目指して移住した。かれらは
ヒンドゥのヴァイシャカーストの人間で、農民や商人がメインを占めていた。かれらは宗
教上の問題で故国を後にしたひとびとだった。移住者集団は最初パスルアンやプロボリン
ゴに定住したが、組織的な移住でなかったから後からやってくる集団は先住者のいないと
ころを目指したために、かれらの集落はジャワ島南岸沿いに西に広がって行った。

この移住者の波はSinghasariに王権を築き、後に王権はKediに移った。今のクディリだ。
だがこのヒンドゥ王国の詳細はなにひとつ記録がない。ニャイクディという名前が登場す
る古文献があるので、女王を戴いた時期があるように思われる。


西暦900年ごろ、ムンダン王国はクディの王家を吸収したようだ。このムンダン王国は
Kamulan, Ngastina, Gajah Huiyaなどとも呼ばれたらしい。ムンダンのジョヨボヨ王がク
ディリに玉座を移し、名前をドホ王国に改めた。

このジョヨボヨ王は予言者であり、ジャワ暦2074年までの未来を予言した。その予言
がことごとく的中したために、ジャワ人はこの王を尊び敬っている。


アジ・サカについての伝説の中に、かれはアスティナのアルジュナ王の子孫であり、イン
ドのジャイヤバイヤ王に仕えたという話がある。ジャイヤバイヤ王はヌサクンダンの様子
を調査するために西暦78年にアジ・サカを派遣した。

このジャイヤバイヤ王の名前の綴りがずっと後の時代のジョヨボヨ王のものと似ていたた
めに、アジ・サカはジョヨボヨ王のことだという見解が後の時代に出現した。今でもそん
な話を語るひともいる。

ジャワに着いたアジ・サカはムンダン国王のデワタ・チュンカルと戦って王位を奪った。
しかしデワタ・チュンカルの息子ダニスワラに敗れて故国に逃げ延びた。西暦125年、
アジ・サカはヌサクンダンへの捲土重来を図った。仏教徒の軍団を率いたアジ・サカはム
ンダン王国を破って王権を奪い、都をプルウォダディに移したのである。[ 続く ]