「ジャワ人の起源(3)」(2023年05月08日)

アジ・サカがムンダンの王位に就いた話はいろいろ作られている。別のバージョンでは、
アジ・サカはムンダンの女王に仕えるために、たったふたりの従者と共に船でヌサクンダ
ンにやってきたことになっている。ムンダンの女王はアジ・サカを使用人のひとりに加え
た。そのときアジ・サカは女王に無心した。住居と食べ物と衣服を頂戴したい。女王は快
くそれを許した。アジ・サカはもうひとつ無心した。この頭のターバンで覆える土地を頂
戴したい。それが何を意味しているのか分からない女王と大臣たちはそれも承諾した。

アジ・サカは知恵の限りを尽くして、誰がやったか分からない方法で女王を消した。多分
女王の死が起こったのだろう。女王の後継者の相談が王家の者と重臣たちの間で行われて
いるとき、「玉座に着くのは自分だ」とアジ・サカが言い出した。誰もが剣もほろろに反
対したとき、「玉座が置かれている土地はわたしのものなのだ。このターバンで覆える広
さの土地をわたしがもらえる許可は女王からいただいている。わたしの土地にある玉座に
座るのはわたしだ。」と言った。それに反論できる者は王宮内にひとりもいなかった。


アジ・サカがどんな方法でムンダンの王になったかはともかくとして、アジ・サカが王位
に就いたと思われる西暦78年もしくは125年にジャワ年代記とジャワ暦が始まってい
るのである。

それ以来、インドから仏教徒の移住が進んだ。新たな移住者はジャワ島南岸のバルンとト
ゥンビニに居住した。仏教徒はスラバヤからずっと北のジャワ海の中にあるバウェアン島
にまで植民した。仏教徒の移住を年代順に並べるとこうなる。
西暦157年 ジュパラ
163年 トゥガル、バニュマス
174年 テンゲル山地
193年 クドゥ
216年 マディウン
252年 ヨグヤカルタ
272年 クディリ
295年 ガウィ、ボジョヌゴロ
312年 クドゥス
314年 モジョクルト
424年 スラカルタ
5・6・7世紀を通して、インドからジャワへ移住してくるひとびとはバラモン教と仏教
の追手から逃れてきた者がメインを占めた。

450年にもインドからの移住者集団がやってきて、チサダネとチタルムのふたつの川の
流域に定住した。この集団はウィスヌ神を信仰するひとびとだった。かれらはそこに王国
を作り、プルナワルマン王を選出した。多分、勇敢で戦争に長けている人物だったからで
はあるまいか。この王は近隣諸王国との戦争で後れを取ったことがなかった。とはいえ、
戦争に勝って相手を支配下に置いた例もあまりなかったようだが。


ある年代記によると、西暦634年にジャイヤバイヤ王が死去し、王子クスマ・チトラが
後を継いで王国の名前をGujaratあるいはKujratに変えた。アジ・サカの主だったジャイ
ヤバイヤ王が没したのは125年だったから、同名別人の話のように聞こえる。

クスマ・チトラが王になったあと、かれは王国が滅んで消滅するという予言を聞いた。ジ
ャワ島への移住がクスマ・チトラ王のオブセッションになった。王は息子のアワブ王子に
5千人の仏教徒軍勢を率いさせてジャワ島に派兵した。この軍勢はジャワ島西部の海岸に
上陸したものの、その地の自然環境が過酷だったためにそこからジャワ島の東部に向かう
ことにした。

一行は建国に良さそうな土地に上陸した。アワブ王子はそこにムンダンカムランという名
前の王国を興してブラウィジャヤ・スワラ・チャラ王となった。[ 続く ]