「ジャワ人の起源(4)」(2023年05月09日)

644年にも3千人の移住者がインドからジャワ島南海岸に上陸した。統率者はアスティ
ナ王国の子孫ハンリン・ドゥルマで、別名ジャイヤ・ハミジャイヤあるいはハンリン・ド
ゥリヤとも言った。この集団はバラモン教徒だった。かれらが上陸した場所はガムルトと
名付けられ、そこにPengin王国、別名Milawa Pati王国が建設された。


華人のジャワ島到来は西暦4百年ごろのインド巡礼者She Fa Hianが事始めで、インドか
らの帰国途上で嵐のためジャワ島の海岸に打ち上げられたことが、期せずして華人がジャ
ワ島を知るきっかけになった。故国へ出発するまでの間、かれは5ヵ月間ジャワに滞在し
た。帰国後かれが著したTu Kiu Kieと題する書物の中で、ジャワはJA VAと表記され、魅
力的な土地だと紹介されている。この論説者の述べたShe Fa Hianは法顕を指している印
象が濃いのだが、Tu Kiu Kieとは仏国記のことなのだろうか?仏国記にジャワは葉調と書
かれている。

後に中国皇帝は廷臣をジャワに派遣して通商を求めた。華人がジャワ島に定住するように
なるのは1021年以来のことだ。華人の来航と定住は通商を目的にしていて、土地の領
有は思慮の外だったようだ。かれらは植民という意識をジャワ島に向けることをしなかっ
たのだろう。

ジャワとさまざまな地域との交易はきわめて繁盛しており、クリン、カナ、ネグロ、パプ
アなどの人種が交易のためにジャワを訪れている、と書かれた西暦860年に相当する年
号を持つ黄銅板がジャワで発見されている。


アラブ人については古い記録に、西暦800年ごろに交易のためアラブ人がはじめてジャ
ワにやってきたと書かれている。かれらは原住民のアニミズム信仰を見て、すぐに一神教
の教化を始めた。さらに布教者たちがジャワにやってきて民衆にイスラム教を勧め、布教
に大きく貢献したひとびとがワリソゴと呼ばれて偉人に奉られた。イスラム教はジャワ島
北岸東部が震源地となって中部に広がり、更に西部に波及して行った。

ジャワ島の民衆はイスラム教を受け入れたものの、昔から信仰されて生活習慣の骨格をな
してきた古いものを総入れ替えするようなことをしなかった。だから社会生活の形態はイ
スラム原理でなされるように変化したにも関わらず、ジャワ人の神秘主義は依然として維
持されたのである。

中には問答無用で新来の宗教を拒否するひとびともいた。かれらは変化していく社会生活
の形態に加わることを拒んで、奥地へ、人里離れた山中へと居住地を移し、遠い祖先から
伝えられてきた人間の暮らしを営み続けることを選択した。


上に述べられた、さまざまな人間集団のジャワ島への渡来は一見して、それぞれがバラバ
ラに起こった何の脈絡も持たない現象のように見える。しかしそのいくつかを糾合したも
っと大きな流れがあった可能性を否定することはできないだろう。この論説はさらにもっ
と奥深いポイントに焦点を当てる。

アスティナ王国のアルジュナ王は長い間領土の拡大を望んでいた。王は無人島への植民を
第一の方法に選び、そしてヌサクンダンに照準を当てた。たくさんの民衆が移住を命じら
れ、多くの船で出発した。移住者集団が上陸したのはジャワ島西部のセラン周辺だった。

かれらが定住を始めると、奇妙な姿の怖ろしげな者たちが移住者を脅かした。かれらはそ
の異様な者たちに名前を付けた。Genderuwa, Tetekan, Cicet, Behamburan, Banaspati, 
Bahung....そればかりか、獰猛な野獣もたくさんいて、人間がむさぼり食われた。奇妙な
姿の大蛇もいて、人間を襲った。被害者は数知れなかった。移住者の中に、故国に戻る者
も出た。このできごとは西暦紀元前450年ごろと見られている。[ 続く ]