「ジャワ人の起源(5)」(2023年05月10日)

それから5百年後、アルジュナ王の14代目の子孫であるベスワラが移住者集団を率いて
船でジャワ島に到着した。このできごとについても諸説があって、ベスワラでなくアステ
ィナという名前であったり、ベスワラはアスティナにジャワへの航海を命じた王であった
りしているが、ベスワラの名前でこの話を続けることにする。

この移住者集団もジャワ島西部のセラン地区に上陸した。定住するのに適した場所だと判
断したベスワラは、その地帯に部落をいくつか作らせ、野獣の襲撃を防ぐ設備を備えさせ
るとともに、移住者の逃亡を抑止する措置を講じた。その地方の統治者となったベスワラ
の政策が適切だったことから、この地方は人口が増えて?栄し、内陸部への開発も始めら
れた。

ベスワラ王の妃ブラマ二・ワティは男児を生み、この王子はトゥリトゥルシュッと名付け
られた。この王子の名をトゥリトゥルスタとしている古文献もある。この王国が後のパジ
ャジャラン王国の祖先になった。


トゥリトゥルシュッ王子が若者になったとき、かれは仏教の奥義を究めるためにコロマン
デル海岸にあるデカン王国に向かい、サリワハナ王に仕えた。奥義を究めて高僧に叙せら
れたとき、王子はアジ・サカまたはハジ・サカに名前を変えた。サカとは仏に仕える僧の
意味だ。アジ・サカはサリワハナ王に願い出た。王国の住民を連れてジャワに戻り、仏教
の楽土を作ることをお許しください。王が賛同したことは言うまでもない。

アジ・サカ率いる移住者集団はジャワ島中部地域の北岸に上陸した。そこには海に流れ込
む川の河口があった。その場所は今のルンバンの町にほど近いワル村だ。その上陸の日は
西暦78年のことだった。

アジ・サカはこの移住先でも、デカンで使われていた暦と時間のシステムをそのまま使っ
た。但し上陸した日をジャワ暦元年1月1日としたのである。またこの植民地ではデカン
の法と行政の制度がそのまま使われた。全員が故国で行っていたままの暮らしをこの土地
に移したということになる。しかし故国で呼んでいた名称ヌサクンダンはジャワに変わっ
た。


アジ・サカは大集団の居住に適した土地を探すために、一部の者を船の見張りに残し、他
の全員を率いて内陸部に足を踏み入れた。海岸から20キロほどのところに山系がある。
そのクンデン山に登って周囲を見渡したとき、周辺を埋め尽くしているジャングルの向こ
うに小高い開けた場所が見えた。

アジ・サカは南東の方角にある開けた場所を目的地に定めたが、路程の困難を予期したか
れは荷物をそこへ置いて行くことにし、正直者で忠実な従者スンボドに見張りをさせた。
そして護身のために自分の刀をスンボドに持たせ、この刀を絶対にわたし以外の人間に渡
してはならない、と命じたのである。

一行は南東のその場所を目指してジャングルを切り開きながら進んだ。そして10キロほ
どの行程の果てに到着した場所は移住者集団の居住に格好の環境を備えていた。アジ・サ
カはそこに集落を作るよう一行に命じ、その地をブローラと名付けてムンダン王国を打ち
立てた。アジ・サカはムンダン王国の初代の王、ジョヨボヨ王になった。

アジ・サカが中心になって村作りが進められ、それが一段落したころはもう何日も時が経
っていた。アジ・サカは自分の刀が必要だったから、スンボドに荷物を運んで来させるの
と同時に自分の刀を一足先に持ってこさせるべく、別の従者のドロにクンデン山へ行くよ
うに命じた。おまえはスンボドにここへ荷物を運んでくるように言い、スンボドが持って
いるわたしの刀を持って一足先に帰って来い。おまえは別の刀を持って行ってスンボドの
護身用にしてやれ。[ 続く ]