「ダウェッアユ(2)」(2023年05月09日)

エスダウェッの作り方と比較してみよう。下はレシピの一例。

まず米粉とタピオカ粉、熱湯、パンダンペースト、塩、薄いココナツミルクでダウェッを
作る。
米粉とタピオカ粉を均一に混ぜ、ココナツミルクとパンダンペーストを加えて再度混ぜる。
それに熱湯を加えてから火にかける。ドウに透明感が出るまで混ぜながら加熱する。
ドウを三角プラ袋に入れ、三角の頂点を切る。冷水と氷塊をボウルに入れ、ドウを搾りだ
してボウルに落とす。
ココナツミルクに塩とパンダン葉を混ぜ、加熱して沸騰させる。
シロップはグラメラと白砂糖、パンダン葉、水を混ぜて沸騰させる。
全部が冷たくなったら、コップや椀にチェンドルを入れ、シロップを加えてココナツミル
クを注ぐ。氷を載せて供するとおいしい。エスダウェッにtape ketanが加えられることも
ある。


エスチェンドルは緑豆粉を使うスンダ料理として興った一方、ダウェッはポノロゴのジャ
ブン村が発祥だそうで、最初から材料に米粉やモチ米粉が使われた。ダウェッの歴史はた
いへんに古く、10世紀にポノロゴに建てられたタジ碑文にダウェッの言葉を見ることが
できる。

15世紀にドゥマッスルタン国が勃興したとき、スルタンであるラデンファタの弟バトロ
カトンがブパティに任じられてポノロゴを治めた。その統治中にポノロゴのワロッのひと
りが戦争傷を癒して健康体に戻った話を聞き、その秘訣がダウェッにあったことを知った
ブパティが兄のスルタンにダウェッジャブンを紹介した。スルタンはこの食べ物をたいそ
う気に入り、ダウェッはすぐに王宮内の常食になった。

ダウェッジャブンは元々色の付いていない半透明の餅のようなものだったのだが、ドゥマ
ック王宮の中で予言者モハンマッが好んだ緑色に染めることが行われ、ドゥマッの勢力伸
長とイスラム化の動きとともに各地に普及して行ったことが想像される。


エスチェンドルが東南アジア一帯に広まったのは、ダウェッがその先鞭をつけたのだとい
う話もある。ポルトガル人がマラッカを征服してその商港を自領にしたとき、ドゥマッが
盟主となってイスラム化したジャワ島北岸諸港を糾合し、マラッカ奪還戦争を何度か行っ
た。そのときドゥマッ軍のアッラーフアクバルの雄叫びに力強さを添えるべく、軍船上や
兵士キャンプで緑色のダウェッが盛んに作られた。それがマラヤ半島の地元民にこのジャ
ワ原産の食べ物の伝わる発端をもたらして、シンガポールからタイ南部に至るムラユ文化
社会がそれを摂り込んだという説がそれだ。


古い歴史を持つダウェッにはいくつかのバリエーションがある。ダウェッジャブンはダウ
ェッの元祖版だ。元祖を押しのけてヌサンタラの各地でダウェッ総代表者の地位を獲得し
たのがバンジャルヌガラ出身のdawet ayu。ダウェッアユの売り物はパンダン葉の香りだ
そうで、チェンドルを緑色に染めるために必ずホンモノのパンダン葉が使われるために、
おのずとパンダンの香りがそのトレードマークになった。

プルウォレジョでチェンドルは黒色にされた。そのために名称はdawet irengになってい
る。黒色の素は稲わらを焼いた灰だ。

ジュパラのひとびとは米粉を使わないでアレンヤシの幹から採ったサゴ粉を使ったから、
米粉のダウェッよりも噛み応えがある。このダウェッジュパラはdawet mantinganとも呼
ばれていて、普通に供されるときにもアヴォガド・ドリアン・ナンカ・クラパムダなどの
果実が加えられている。

スマランではdawet semaranganと呼ばれるバリエーションになった。通常のダウェッに必
ずドリアン・ナンカ・タペクタンが加えられている。[ 続く ]