「ダウェッアユ(3)」(2023年05月10日)

全国的にダウェッの総代表者になったダウェッアユはバンジャルヌガラで生まれ育った。
バンジャルヌガラは中部ジャワ州バンジャルヌガラ県の県庁が置かれている町であり、そ
こは神々の住むディエン高原への南西からの入り口に当たっている。この町の歴史は15
71年までさかのぼることができる。

バンジャルヌガラが邑になったとき、パジャンのスルタンの統治下に入ることを希望する
民衆の意を代表して邑の長がパジャンに赴き、その承認を得た。それがこの町の発端だそ
うだ。


バンジャルヌガラでダウェッの作り売り商売が始まったのは1960年代であり、マドゥ
カラ郡ルジャサ村に住むムナルジョという人物の始めた商売が類を集めて拡大したという
話になっている。しかし別の人は別の話をしていて、そのひとが子供ころにダウェッはパ
サルで売られており、母親も家でよく作っていた。20世紀初めごろから既に人気のある
食べ物になっていた、という話もある。

今でもバンジャルヌガラの町のアルナルンには日々、数十人のダウェッアユ作り売り人が
angkringanを置いて商売している。アンクリガンとは天秤棒の両端に荷物を置いたかごを
吊り下げ、それを肩で担って運び歩く巡回販売のスタイルで、野菜や果物売りなら商品を
運ぶだけだが、食べ物作り売り人は食べ物の素材と作る道具をそうやって運び、路傍や他
人の家の軒先など適当な場所に下ろしてそこに店を張った。

その活動様式を行なうための道具類、つまり天秤棒やかご、吊り紐などは本来アンクリン
という言葉があるのだが、ひとによってはそれをもアンクリガンと呼ぶことがある。つま
りアンクリガンという言葉はそのスタイルの商売、その商売を行う人間、その商売に使わ
れる道具類を指して使われているということだ。

ヨグヤカルタでは、アンクリガンと呼ばれてきた天秤棒方式から車付きの屋台に運搬具の
変化が起こったとき、ひとびとは新しい運搬具になった屋台を相変わらずアンクリガンと
呼び続けた。これによく似た現象はバリ島にも見られる。

遠い昔、ダイハツミゼット三輪車の乗合自動車は全国どこでもベモと呼ばれた。バリ島で
も同じだった。そのうちに三菱コルトなど軽四輪トラックの荷台を乗合用に改造した車が
登場するようになり、三輪車に取って代わった。たいていの町ではその四輪乗合をangkot
と呼び変えたのだが、バリ島では同じ機能を持つ異なる形態のものをベモと呼び続けた。

たいていの地方では屋台をgerobakと呼び変えたために、アンクリガンという言葉は消滅
してしまったが、ヨグヤカルタにはその名前が残った。それから何十年が経過しただろう
か。ヨグヤカルタのアンクリガンに倣って、他の町でも食べ物作り売り屋台をグロバッと
しないでアンクリガンと呼ぶひとびとが増えてきたのである。


昔からダウェッアユの作り売り人はアンクリガンスタイルをとっていた。天秤棒の両方の
かごに大きめの素焼きのかめを置き、一方にはココナツミルク、他方にはダウェッを入れ
て担いだ。昔のひとは素焼きのかめにそれらを置くと冷たさが保たれると考えていたそう
だ。しかし氷が容易に作られる時代になってからは、氷も一緒に運んでグラスや椀に入れ
るようになっている。

angkring dawet ayu略してangdayuは、特徴を出すためにアンクリガンが明るい緑色に塗
られ、ワヤンのプナカワンのメンバーであるスマルとガレンの姿がアイコンに使われてい
る。SemarとGarengを足して二で割ったMarengがダウェッアユの符丁になった。ダウェッ
アユのアンクリガンにはそのふたつの木製のワヤン像がたいてい取り付けられている。

バンジャルヌガラのアルナルンで店を張っているダウェッアユ作り売り人のひとりは、こ
んな話を聞かせてくれた。その女性がマグランで商売するためにアンクリガンを作らせた
ところ、どうした手違いかスマルとペトルッの像が付いたものが届いた。かの女自身、な
ぜマレンでなければならないのかということがよく分からなかったために、まあこれでも
いいかなと思ったそうだ。しかしじっくり考えた末に、ペトルッをガレンに変えさせた。
どうしてマレンでなければならないのかはいまでも分からない、とかの女は正直に告白し
ている。[ 続く ]