「ダウェッアユ(5)」(2023年05月12日)

全国各地で地元民がスラマタンや祝宴を開くとき、主催者が雇ったダウェッアユ作り売り
人が会場の片隅に陣取っていて、その催事の招待客が無料でダウェッアユを賞味している
姿が普通のものになっている。

バンジャルヌガラのホテル業界でも、ホテルで行われるバンケットなどにアルナルンにい
る作り売り人を誘うことがよく行われている。アルナルンでの商売で二十年選手になって
いる作り売り人はマグランにもアンクリガンを置いており、マグランのすべてのホテルで
ダウェッアユの仕事をしたと誇りを滲ませながら語っていた。


バンジャルヌガラ県の面積は1,069平方キロ、2021年の人口は102万人で、人
口密度は平方キロあたり951人となっている。バンジャルヌガラの出身者が全国にどれ
だけ散らばってダウェッアユ商売を行っているのかは、なかなか正確な様子がつかめない。
2010年ごろのジャカルタのデータによれば、ジャカルタだけでバンジャルヌガラ出身
者が5,219人いるという報告がある。

バニュマスの地元文学者でインドネシア文学界の名作Ronggeng Dukuh Parukを書いたアッ
マッ・トハリ氏はバンジャルヌガラ特産品のダウェッアユの全国拡大に関して、1980
年代に全国的に激化したアーバナイゼーションがひとの移住を高め、バンジャルヌガラか
らの移住者が移住先での生計のためにダウェッアユの作り売りを選択したという構図を分
析した。どうやら、バンジャルヌガラ人がダウェッアユを普及させるために全国に出て行
ったということではなさそうだ。

バンジャルヌガラ人に故郷からの移住を推進させた三つの要因をトハリは想定した。マオ
スからチラチャップにかけての一帯に勃興した何百軒もの中小から家内工業に至るジャム
ゥ生産者の出現、バニュマス一円で生産された農器具の販売、バニュマスで確固とした地
元産業を形成しているヤシ砂糖生産。それらの商品販売者と農業従事者が商品を携えて全
国各地に出て行ったのがバンジャルヌガラ人の全国移住の動因だったというのがトハリの
示した分析の内容だ。


トハリはダウェッアユの命名についても、20世紀初めごろにダウェッを作り売りしてい
た一家があり、歳月の経過後その三代目のたいへん美しい娘が作り売り人になったことか
ら、だれ言うとなくその一家のダウェッをダウェッアユと呼ぶようになったということを
書いている。

バニュマスのキアイハジ・ウィラヌもトハリと似たような話をしている。それによれば、
ダウェッ作り売りのパイオニアだったムナルジョの奥さんが美人だったためにひとびとは
かれのダウェッをダウェッアユと呼んだそうだ。1960年代にその夫婦はもう世を去っ
ていたとも語っている。


バンジャルヌガラ人が住み着いた土地がどこであれ、かれらはダウェッアユをそこで作っ
た。移住先の土地で、別地方から移住してきた者の中にも、そしてもちろん地元民の中に
もそれを作る者が出た。ダウェッアユは至る所に出現したが、作り売り人がバンジャルヌ
ガラ人であるとは限らなくなった。だがダウェッアユの名前は守られた。

メダンの町ではじめてダウェッアユを地元民に紹介したのはバンジャルヌガラ人だったが、
そのうちにジュラガン制度が始まった。この場合のジュラガンとはダウェッアユ作り売り
商売の元締めを意味し、元締めに雇われた者が作り売りを行って利益を分配する方式を指
している。たとえばジュラガンのひとりスルトニさん25歳はスマラン出身だ。かれはお
よそ百人のバンジャルヌガラ人を作り売り人に雇って、メダンの町中で商売させている。

極論するなら、作り売りの技能と労働力さえ持っていれば、この制度の中で雇われる者は
裸一貫で食っていくことができる。寝るところと食事はジュラガンが用意し、ジュラガン
が用意したダウェッの素材を使ってダウェッアユを作り、それをジュラガンが用意したア
ンクリガンに積んで売り歩けだけでよい。[ 続く ]