「ダウェッアユ(終)」(2023年05月15日)

スルトニをジュラガンとするバンジャルヌガラ出身者たちは、ルバラン帰省で何不自由す
ることもない。日々メダンの町でダウェッアユを作り売りしている百人近いかれらの中の
帰省を望む者は、メダンからスカルノハッタ空港までの航空券をジュラガンが用意してく
れる。メダン⇔ジャカルタ間の往復航空券はひとり100〜150万ルピアだ。更にスカ
ルノハッタ空港からバンジャルヌガラまでの貸切バスも1台6百万ルピアかけて用意して
くれて、おまけに一人当たり10万ルピアの小遣いまで支給される。帰省する者は貯えた
自分の稼ぎを必ず実家に持ち帰る。ひとりだいたい4〜5百万ルピアの現金が実家へのお
みやげの中心になっている。

一方、バリ島デンパサルの観光地でダウェッアユ作り売り商売をしているハサヌディンさ
んはすべて自己資本による個人事業を行っている。外国人観光客も頻繁にダウェッアユを
買いに来る。


バンジャルヌガラにダウェッアユを巻き起こした創始者と目されているムナルジョの奥さ
んが、2003年3月2日付のレプブリカ紙記事に登場した。記事にはこう書かれている。
・・・作り売り人のひとりで、同時にバンジャルヌガラにダウェッアユを存在たらしめた
先駆者はそう語った。・・・

ダウェッアユは防腐剤・合成着色料・他の化学物質を一切使わず、自然のままの素材を使
っているから人体に安全な食べ物です。だから一日しか日持ちしません。でも冷蔵庫に入
れれば、二日は持ちますよ。緑色はパンダン葉を細かくつぶしてからそれを搾って汁をと
り、ドウの中に混ぜるのです。ところが最近の作り売り人の中には合成着色料を使う者が
いるのです。おまけにダウェッの材料を緑豆粉にして米粉を使わなかったり、ほんの少し
混ぜるだけにするひともいます。ダウェッの歯ごたえが全然違います。しばらくかき混ぜ
ていると、ダウェッが溶けちゃったりして。

米粒を粉にするとき、ほんとうに細かくしてやるとダウェッのおいしさが違ってきます。
手をかけたものはほんとうに美味しいものになるのです。自然は嘘をつきませんから。
この老婦人はインタビューした記者にそう物語った。


かの女はバンジャルヌガラバスターミナルにほど近い町中にキオスを開いていて、アンク
リガン商法をしていない。しばらく前まではそのキオスに自分も出ていたが、もう現場に
立つことはしなくなり、キオスはひとを使って運営している。かの女はダウェッアユの草
創期について、こんな話をしてくれた。

夫のムナルジョがこの商売を始めたのは1940年代だった。夫は叔父のドゥラ・サタリ
がその商売を以前から行っていたのを見倣って始めた。叔父から作り方のコツを教えても
らった。そしてふたりで続けてきたこの商売も、1991年に夫が亡くなったために変化
を余儀なくされた。ただしそれは経営スタイルの問題であり、世間に見せている商売の表
情にたいした影響が出たわけではない。

かの女はすでにふたりの娘にダウェッアユの作り方を教え込んである。事業の進路とは関
係なく、ダウェッアユがこの一家から姿を消すことは起こらないだろう。


ダウェッアユの商売は暑い天気が味方する。ムナルジョ夫人のキオスでは、乾季の暑い日
になると150杯くらいダウェッアユが売れる。しかし曇りや雨の日、あるいは風が涼し
い日などでは40杯程度しか売れない。ところが、ルバランともなると天候はほとんど無
関係になり、商品の仕込みは普段の3倍に達する。それですら、売り切れ御免という状況
になるのが普通だそうだ。

バンジャルヌガラにダウェッアユが興った草創期の生き証人はその名前の由来について、
こう証言した。ムナルジョの奥さんに由来したという説を知ってか知らずか、名前の由来
についてはよく分からないとかの女は言う。べつにとぼけているわけでもなさそうだ。

世の中でみんながダウェッアユという言葉を使うようになったのは1980年代だった。
そのころ、バニュマスのローカルコメディアングループ「ペアン=プンジョル」がダウェ
ッアユというタイトルの流行歌を作り、それが巷に広まった。そのとき、かれらはムナル
ジョのキオスにやってきて、「こんな歌をつくりましたよ」と夫婦に紹介したそうだ。
これではどうも、大統領が顔を出す余地はなさそうだ。[ 完 ]