「ミナンカバウ王宮の料理人(前)」(2023年05月16日)

西暦14世紀以来西スマトラ州を支配したパガルユン王国の緑滴る高原にある、今は博物
館になっている大王宮Istano Basaからおよそ1キロ足らずの北西にIstano Silinduang 
Bulanがある。北のバトゥサンカルの町と南のサルアソに繋がる街道に合流する、現在ス
ルタンアラム・バガガルサという道路名のゆったりした道路にその二つの王宮は面してお
り、この道路は王宮の便宜のために作られたものではないかという印象を感じる。

パガルユン王国の威勢は種族領土の外にまで拡大し、州境を超えた外の世界にまでミナン
カバウの人間と文化が浸透した。庶民レベルでの人間と文化の浸透やその地の支配者との
姻戚関係作りなどの結果、パガルユン王国がその源流に関与していると認められるパガル
ユン外の王国は近隣諸地域からマラヤ半島に至るまで、75の地域が数えられている。


シリンドゥアンブラン王宮は今でも王家の子孫が住んでいて、王族の暮らしがそこで営ま
れている。ヌサンタラ全土の王たちは領地領民をインドネシア共和国に提供したものの、
種族文化とアダッを束ねる頭領としての仕事がなくなったわけではないのだから。

だからインドネシア共和国という国家機構でありながらヌサンタラの至るところに王家が
存続しており、各王家は昔ながらの王宮に住んで一般庶民と異なるライフスタイルを営ん
でいる。その現象は、かれらが往時の栄光を無知な庶民の上に輝かせて虚栄の暮らしにし
がみついているということでなくて、文化上宗教上の慣習と祭祀の中心の座をかれらが依
然として占めているからなのだ。


王宮の裏庭にある厨房で、5人の中年女性が忙しく働いている。かの女たちは宮廷の料理
人なのである。シリンドゥアンブラン王宮にも、重要な賓客がしばしば訪れる。大統領・
副大統領・諸大臣などの政府要人から他王家のスルタン、ネグリスンビラン王家、州内諸
レベルの行政首長、学者・文化人・音楽家・人気歌手に至るまで、パガルユン王家の当主
の賓客になって訪れるひとびとは数多い。賓客には必ず宴が用意される。賓客たちの舌を
悦ばせ、機嫌よく当主との歓談を遂行させる脇役が宮廷料理人であり、コンパス紙記者は
かの女たちを「舌の征服者」と形容した。舌を征服された賓客たちは当主との歓談で、き
っと従順な話し相手になることだろう。

料理人の役割はそればかりでない。ジャワのマジャパヒッ王国と血縁を持つアディティヤ
ワルマンが興したパガルユン王国は地元のムラユ文化の色濃い王国になり、アダッ運営指
導者の交代、人間の通過儀礼、宗教祭日などに宴を催すムラユ的風習をたっぷりと受け継
いだパガルユン王家も頻繁に祝宴を開いて領民と集い楽しむことをモットーにしてきた。
料理人が腕を振るう場があふれんばかりにあったということだろう。

あるとき、ある国内政党首の来訪があった。地元のその政党関係者たちも大挙して王宮を
訪れたから5百人分の料理を用意することになった。そのとき、厨房の内外で30人の料
理人が薪のコンロを並べて一大壮観を見せたそうだ。


かつてパガルユン王宮内には王宮の生活組織規範として厨司長の役職が設けられていた。
厨司長は料理の専門家であり、王宮内での飲食に関する総責任を担う者だ。いま厨房では、
働いている5人の中年女性の中のひとりが他の4人の指揮を執っていることがわかる。リ
ーダーになっているマイヤルさんは歴代の王宮厨司長の血を引く人物なのだ。他の料理人
もみんな代々、王宮料理人の家職を相伝しているひとたちだ。

王宮の美食はレシピが作られない。レシピは宮廷料理人の家で親から子に口伝で教えられ
た。書き遺してはならないのだ。秘密のレシピはすべて記憶しなければならない。

マイヤルは6歳のときから母親に料理をしこまれた。最初に教えられた料理が牛肉・水牛
肉のルンダンだった。「おいしいルンダンを作れない女はミナンの女と見なされません。
他に教えられた料理はグライジャリアンロンカンやカリオアヤム、イカンゴレン、いろん
なサンバル、汁料理、菓子類でしたよ。」

王宮の宴にはいつもマイヤルとそのチームの料理が供される。量が増えれば料理人が増や
されるが、マイヤルは自分をさしおいて別の料理人チームやケータリングが使われること
を忌み嫌う。それはかの女にとって、自分の名誉にかかわる大問題になっているからだろ
う。


コンパス紙記者が取材に訪れたその日、マイヤルとそのチームはタウナギを焼いていた。
焼きあがったタウナギは近くの木の枝にひっかけて風に当てる。このあと、タウナギはル
ンダンにされるのだ。もちろん肉のルンダンも必ず作られる。ミナンでは、宴に牛肉や水
牛肉のルンダンがないと宴にならない。[ 続く ]