「マドゥラのジェンキ建築(1)」(2023年05月22日)

マドゥラ島は現在、東端のスムヌップSumenep県から西に向かってパムカサンPamekasan県、
サンパンSampang県、バンカランBangkalan県と四つの県が並び、すべての県境は北から南
にほぼ一直線に島を分断している。その東端のスムヌップに13世紀後半、ジャワのシゴ
サリSinghasari王国がアディパティを置いた。アディパティは直轄領の現地総督といった
地位を想像するとよいだろう。

シゴサリの後を継いだマジャパヒッ王国もアディパティを派遣してマドゥラ島を治めた。
アディパティたちは前任者が宮殿を置いた土地に住まず、別の場所に宮殿を作ったから、
スムヌップの町が常に首府になったわけでもなさそうだ。


17世紀前半にマドゥラ島は小王国に分裂した。その間で政治軍事上の覇権を争うような
ことは起こらなかったように思われる。マドゥラ島の覇権を握ったところで、所詮はジャ
ワの王国を宗主に戴く属国にしかなれないのだから。

マタラムスルタン国の時代に、スルタンアグンがマドゥラ島の諸王国を平定し、サンパン
の王子に全島の支配権を与えた。スムヌップにはジャワからアディパティを派遣した。ジ
ュパラ出身のこのアディパティは後にパヌンバハンソマラを名乗って小王になる。サンパ
ンの王子の下風には立たないということだったのかもしれない。

小王としての格を示すことはおろそかにできない。そのためだろう、スムヌップの町を代
表するふたつの建築物をかれは作った。スムヌップ王宮とモスクMasjid Jamikだ。スムヌ
ップを代表する施設はもうひとつあって、王家の墓所であるAsta Tinggiがそれだが、こ
の墓所は17世紀後半に作られたとされていて、王宮とモスクの建設よりはるかに古い。
しかし墓地というものは一度作ったらそれで終わりというわけにいかないもののようだ。
必要に応じて拡張されたり、中の状態に手が加えられたりすることも当然起こったにちが
いないと思われる。

ただ面白いことに、それらの建築物はジャワ・中華・ヨーロッパ・マドゥラの四つの様式
が混ぜ合わされた折衷様式になっている。もっと興味深いことには、王宮とモスクの設計
が華人によって行われた点だろう。この設計者は名前をLauw Pia Ngoと言う。かれはアス
タティンギの一部の建物も作ったから、スムヌップが持った折衷様式の建築物はかれに負
うところが大きいように思われる。言わずもがなだろうが、建築設計者のデザインが施主
の意向を反映していることは言うまでもあるまい。世の中はそういう風になっているのだ
から。

ラウ・ピア~ゴはスムヌップに移住してきた6人の華人のひとりで、その6人は1740
年に起こった華人街騒乱がジャワに拡大したときスマランから逃げてきた者たちだったと
見られている。その事件のためにマドゥラ島に逃げて定住した華人は少なくなかったそう
だ。かれらはプチナンを作らず、地元民の中に入って生活し、華人の血は最終的にマドゥ
ラ人の身体の中に溶け込んでしまった。


スムヌップの統治者でアディパティのパゲランナタクスマは逃亡華人を受け入れ、王宮建
設に力を貸すようかれらに求めた。スムヌップ王宮の建設が開始されたのは1767年だ
った。パゲランナタクスマがブランバガン征服戦に参加してからスムヌップに帰還したの
がその年だ。建設工事の完成は1780年だった。

王宮の建物配置はジャワの王宮とそっくりに作られている。南向きに建てられている主殿
の表にプンドポ(大広間)があり、回廊でつながれている。東南には王の子供たちが使う
水浴場が設けられ、花園がある。プンドポの東側には大きいブリ~ギンの樹が植えられて
いる。ヨーロッパ風の要素は、建物に使われているヨーロッパ風の柱と鐘が取り付けられ
た塔に見ることができる。

また、この王宮の中には木彫装飾に卍のモチーフや鳳凰の図柄が使われているものがあり、
中華文化の香りを漂わせている。[ 続く ]