「足踏み茶(1)」(2023年05月29日)

teh kejekは西ジャワ州ガルッ県チグドゥッ郡チグドゥッ村の特産物だ。ケジェッはスン
ダ語で「足で踏む」を意味している。茶葉の加工プロセスの中に葉を足で踏む工程がある
のでそう名付けられた。昔はその特徴に人気があったので、村では4軒の小規模茶葉生産
者がケジェッ茶を作っていたが、今では生産者が一軒だけになってしまった。これは20
16年のコンパス紙に掲載された記事に拠っている。


チグドゥッ村に茶葉産業が興ったのは、1865年にオランダ人カレル・フレデリック・
ホレがチカジャンとチグドゥッの原野を茶農園にしたのがきっかけではないかと考えられ
ている。かれの茶農園にはPerkebunan Teh Waspadaという名が付けられた。ホレは単純肉
体作業に地元民をたくさん使った一方、茶木の栽培と茶葉加工のためにその経験を持つ華
人を何人も雇用した。

ケジェッ茶は1900年ごろに始まったと言われているので、それ以前には農園内に建て
られた加工工場で茶葉の加工が行われていたのが疑いないところだろう。ケジェッ茶の加
工プロセスは基本的に中国やヨーロッパで行われているものに即しており、地元民が知恵
を出し合って考え出したものとは考えにくいという意見がある。しかし農園内の工場で加
工プロセスを体験した者にとって、自分の身の丈に応じて工程作業に手直しを加えるのは
それほど難しいことでもなかったのではないかという気もする。


ケジェッ茶の発端がホレの後継者とのコラボ下に起こったものかどうかははっきりしたこ
とが分からない。地元民が家庭内に作業場を自主的に設けたのか、農園からの指導下に行
われたのか、製品はマジョリティが農園に納められたのか、それとも農園と無関係に製造
販売事業が行われたのか?

ケジェッ茶生産者の原料入手の問題、ケジェッ茶の黄金時代が1970年代にやってきた
歴史などを考え合わせるなら、20世紀の前半は生産者が農園に依存していた可能性が強
く感じられるのである。


もしもそれが当たっているとするなら、20世紀の前半には農園主と幹部たちが決めた加
工方法が地元民に教育指導され、地元民が納入する茶葉の品質をかれらが検品してグレー
ドを分け、売れる製品だけを受け入れていた様子が想像されるのである。

電気もない地元民の家庭で行われる茶葉の加工工程は、テクノロジーによる能力の差をア
イデアで乗り越えなければならない。乾燥のための電気ヒーターやオーブンを期待するこ
とはできないし、大型撹拌機も無理だ。ゼロかほんのわずかな投資で地元民がそれらの工
程をクリヤーできるようにしてやらなければならない。熱は薪で作りだせばよい。撹拌は
人力で行えばよい。それが、足踏み茶が生まれた原因だったのではないだろうか。


しかし生産者が百パーセント完璧にワスパダ茶農園の下請けになっていたかどうかはまた
別問題だろう。農民の間に茶を栽培する者が出なかったはずもないだろうし、また生産者
が製品をすべて農園に納めたわけでもないように想像される。たとえそうであっても、ケ
ジェッ茶生産者が何をどうしようが、そのコラボは農園側に圧倒的なメリットをもたらし
たはずだ。

当時のすべての農園がそうであったようにワスパダ茶農園も製品を輸出に回しただろうか
ら、ケジェッ茶がローカル消費者の口に入ることはあまり起こらなかったのではあるまい
か。しかしその構図も、1957年から始まったオランダ人追放とオランダ資産国有化に
よって変化した。

ワスパダ農園もインドネシア共和国政府国有事業体がオーナーになり代わった。輸出努力
は続けただろうが、ローカルマーケットへの茶の販売促進も始められた可能性が高い。

ケジェッ茶の生産は続けられ、スンダ地方東南部で地元消費者へのプロモーションによっ
て人気が高まり、チグドゥッ村の足踏み茶は村の経済促進に大きく貢献するようになった。
ケジェッ茶の黄金時代がやってきたのだ。村内では、売れ行きの良い足踏み茶の生産が活
発に行われていた。[ 続く ]