「ミスティック」(2023年05月31日)

ライター: 言語オブザーバー、アルフォンス・タルヤディ
ソース: 2006年2月10日付けコンパス紙 "Mistik" 

この日刊紙にmistikな要素を盛り込んだテレビ番組に対する厳しい批判がたびたび掲載さ
れている。次のような記事タイトルを見てみるがよい。イ_ア語mistikは英語のmysticを
そのまま摂り込んだ借用語である。
- mistikな番組は倫理規定で管理されるべき (2003年8月28日)
- 公衆の愚昧化 (2003年9月15日)
- 放送倫理規定がmistik番組を追放するのは今 (2004年1月3日)
- テレビのmistik番組と犯罪番組の怖さ (2004年8月22日)
- 宗教を理由にしてmistikを食い物にしてはいけない (2005年12月27日)
そして最近、2006年1月14日に「不安をもたらすテレビ番組」と題する社説まで登
場した。

本論はmistikと称されているテレビ番組への批判リストを長くするためのものでなく、こ
の論争を生じさせている術語の正確な理解に光を当てることを目的にしている。上述の諸
記事の中で批判されているポイントがmistikの本当の概念に即したものになっているかど
うかということをまず問わなければならない。たとえば「公衆の愚昧化」の記事の中で参
照例に上がった、ひとりの医療従事者が患者に向かって抜き身のクリスを振り回すシーン
やドゥクンの所有するクリスがひとりでに鞘から抜け出して空中を飛ぶシーンをmistikと
いう言葉に当てはめることは本当に妥当なのかという疑問だ。あるいはまた、洞窟に住む
隠者が手を触れると現金が出現するありさまをmistik現象の主要なイメージととらえるこ
とが本当に適切かということなのだ。

それらのシーンに貼られたmistikのラベルは、たとえばポール・ステイ―ブンスがその著
「地に着いた精神性」(2005年)の中で述べた「神はわれわれをmistikなものになる
ように仕組んだ」という文の中で使われた同じ言葉と重ね合わせることができるのだろう
か。どうやら、この言葉の真の意味を明らかにしなければならないようだ。


mistikの語源はギリシャ語mystikosで、観照と自己放棄を通して神性に合一しようと努め
る者を意味している。新オックスフォード英語辞典(1998年)によれば、その語義は
古代宗教や秘教的儀式のミステリーに関係することがらと説明されている。

後者の意味は前者と本質的な関係を持っていない。ウォルターTステースが明言している
ように、ミスティシズムとは魔術的な手段や信仰を意味しているのではない。またテレパ
シーやテレキネシス、あるいは透視術のような疑似心理学現象を指しているのでもない。

エヴェリン・アンダーヒルはミスティシズムの目的を絶対者との意識的関係構築技術とい
う深遠でスピリチャルなものであるとしている。ミスティシズムの要件とメソッドは愛で
ある。ミスティシズム者にとって愛は絶対者に向けられた期待と憧憬のアクティブな表明
であり、純粋なミスティシズムは決して自己を探求することをしない。

ムスリムのスーフィー詩人ジャララルディン・ルミはあらゆる宗教と異なる、愛の宗教を
唱えた。アッラーを愛する者はアッラー自身以外の宗教を持たない。

神学者カール・ラーナーはわれわれの心の深奥に語りかける。神がわれわれを愛している
ことをわれわれは知っている。そして少なくとも沈黙の中で、われわれみんながお互いに
愛し合っていることもわれわれは知っている。


これまでmistikな内容のテレビ番組というラベルを貼られて批判の槍玉にあげられてきた
ものがそれらの真の意味におけるミスティシズムの内容にまったく当てはまらないのは明
白だろう。真のミスティシズム者は快楽・富・名誉・権力などといったこの有限世界の些
事を追い求めたりしない。スーフィーたちの心は全面的にアッラーに向けられる。著名な
ムスリマスーフィーのひとりラビア・アラダウィヤが詩の一節の中に示したように。

わたしは神に仕える
地獄が怖いからではない
天国に入れるように期待しているからでもない
わたしがそうするのは
神への愛のゆえである