「マドゥラ島の鉄道(後)」(2023年06月13日)

全線開通後、だいぶ後になってからMSMは更にクワニャルとカマルを直接結ぶ路線を敷
いてカマル⇔バンカラン⇔クワニャル⇔カマルを環状線にし、カリアガッ⇔カマル間の距
離を短縮させている。
1913年9月 カマル⇔クワニャル 26キロ

このマドゥラ蒸気トレムと呼ばれた鉄道はドイツのハートマン社製蒸気機関車が貨物車と
客車をけん引して走った。燃料は薪と石炭だった。後にホエンツォラン社製蒸気機関車も
加えられた。


しかし、タナメラ⇔クワニャル区間は世界大恐慌のために1936年に廃止され、パムカ
サン⇔カリアガッ区間は1940年にパムカサンでの塩生産がストップしたために閉鎖さ
れた。パムカサン⇔カリアガッ区間の鉄路は更に日本時代に撤去されて日本軍が持ち去っ
ている。

その後は1980年代まで運行が続けられていたものの、採算が取れないことを理由にし
て1984年に残っていた全線の運行も停止されてしまい、そのまま今日に至っている。
マドゥラ人の蒸気トレム利用頻度が減少の一途をたどり、反対に個人用交通の足としての
二輪車普及が猛然と進行したために、公共トレム運行事業の将来性が見込めないという主
張に反対する声はどこからも起こらなかったのではないだろうか。


2016年3月、コンパス紙はマドゥラ鉄道の現状をルポした。文字通り、鉄道線路と付
属施設の現状を見て回るトリップだ。カマル港にあるカマル駅からスタートしたトリップ
は、カマル駅も線路も何ひとつ存在しなくなっている現状を報告した。しかしひとつだけ、
往年の威勢を今に残している建物が見つかった。バライカルヤだ。飛行機の格納庫のよう
な大きい建物が三棟並んで建っている。それは鉄道車両の修理・メンテナンスのためのデ
ポおよびガレージとして使われていたものだ。

建物のひとつはフットサル施設にされて今も使われているが、他の二つはただの物置にな
っているだけ。付近に夜間照明がないため、夜には無人の暗黒の空間が広がるばかりだか
ら、建物裏の住民たちは怖がってここに寄り付かなくなる。昼間はここを突っ切って表通
りに出て行く大の大人も、夜には迂回しているという話だ。コンパス紙記者は、ここはホ
ラー映画のロケにもってこいだ、という感想を書いた。


更に線路を求めて北に向かう。カマル=クロブガン、クラヤン、バンカラン街道沿いの線
路はその姿をはっきりと土の上に現わしていた。バンカラン⇔サンパン区間もすべてが残
っていて、場所によっては枕木までが地上に出ている区間もあり、今すぐ列車を走らせて
もよさそうな雰囲気が感じられた。

ジャワでは、廃線にされた場所では線路の略奪が起こるのは半ば常識と化しており、それ
と比較してマドゥラのその様子を「鉄路にとってマドゥラは安全な場所だ」と感嘆の思い
を込めて記者は書いた。それはひょっとしたら、ジャワ人のマドゥラ人に対して抱いてい
る偏見もしくは先入観に引っ掛けた皮肉だったのかもしれない。

ジャワ人一般が抱いているイメージの中にいるマドゥラ人は怖いひとびとなのである。ジ
ャカルタにいたわたしですら、「マドゥラ人ともめ事を起こすと後が怖い」という言葉を
何度も耳にしたことがある。その怖いひとびとの本拠地とくれば、マドゥラ島は怖い島だ
という印象が湧きおこって当然だろう。

そんな怖い島に敷かれた線路が何十年もの間略奪されないまま残されている事実は、偏見
を抱いているひとびとにとって、きっと新鮮な驚きになることだろう。[ 完 ]