「非父権的なジャワ女性(1)」(2023年06月14日)

インドネシアでmatriarkiという言葉を聞くと、すぐにミナンカバウが脳裏に浮かぶ。こ
のマトリアルキというインドネシア語には母権制あるいは女家長制度などという訳語が与
えられている。しかし母権制と言わずに母系制と呼ぶ日本人の方が圧倒的に多いのではな
いかという気がわたしにはする。

母系制はインドネシア語でmatrilinealと言い、血統の面に焦点を当てた言葉のように感
じられる一方、母権制は集団を統率するパワーの掌握者を指しているように思われるので、
明らかに言葉が指し示している内容が違っている気がするのである。もちろん仕組みがパ
ワーの位置に影響をもたらすのは当然だから、それらは派生関係にあると言ってかまわな
いのかもしれない。

ただ、こんなことは、語義の厳格な区別をしなくても感覚的に判るだろうという言語慣習
の中にいるひとびとにとって「今さら何を」という話になるかもしれない。そんなことに
正誤の定規を持って来てどうこう言っているひとたちに向かってかれらは、みなさんは学
校に戻って試験問題を作っていればそれでよいのだと言うかもしれない。

それはともかくとして、マトリリネアルという語に西洋人がmatrという語を当てたのはよ
くわかるのだが、マトリアルキにどうしてmatrが使われたのだろうか?母は言うまでもな
く女性だけがなれる立場を示す言葉だ。とはいえ、支配や統治・統率という言葉と組み合
わされたとき、母という立場の女性がそこに限定されてしまうのではないのだろうか。
潜在的にその立場に立てる女性が含まれるのかどうかという点に焦点を当てて見たとき、
どうもマトリアルキという言葉が正鵠を射ていないような気がしてならないのである。


ミナンカバウ社会を言い表すのに、母系制と言わず母権制と言うほうが的確であることは
社会の仕組みを見れば明白だ。ブンドカンドゥアンが象徴するミナンの母系制文化は、ひ
とつの氏族の中で最長老の女性がその氏族の指導者になることを定めた。母系制と母権制
はそこで一体化しているのである。

おまけにミナンの男性にとって生きることの形がランタウという慣習として形成されたの
も、母権社会であったがゆえのことだ。家と財は女から女に相伝される。女は家長になり、
族長になり、定住して有形無形の資産を受け継いで守っていくのである。男がそこに関与
する余地はない。その結果、ランタウという社会制度が生まれた。


男が家の中にいても、保安の番人程度の役には立っても無駄飯を食らうだけの非生産性人
間になるのがオチだろう。男を家の外で生きるように仕向ける要素がランタウという社会
制度を設けたのではあるまいか。親の保護と養育があまり必要でなくなった段階で、男児
はイスラム礼拝所のスラウで寝泊まりするようになる。スラウはミナン人青少年にとって、
男組の家のようなものだ。女が握っている母権社会の海の中に、ポツンポツンと男の世界
が設けられていた。

スラウには熟年の世話人男性がその建物に住んでいる。少年たちの保護と監督に抜かりを
起こすような社会は世代を超えて存続することができないだろう。世話人と少年たちの間
にはまるで親族のような感情の交流が起きるのが普通だったようだ。

まだランタウに出ていない青年たちと子供らが集まってスラウで長い夜を過ごすことにな
る。青年たちの論議は夜ごとの定常番組になり、少年たちはそこでさまざまな社会知識や
生活のための技能を学んだ。

ミナンカバウの母権社会は男児にも女児にも、早い時期から独立独歩するための気構えを
育成した。家から出される男児はすぐに世の中という波の中に入ることを余儀なくされる。
家の外の世界でもまれることは、その精神を鍛えるのにたいへん有益だ。それを物語るこ
とわざ格言は世界中に昔から掃いて捨てるほど用意されている。[ 続く ]