「非父権的なジャワ女性(3)」(2023年06月16日)

社会が持っている価値観に従って理想とされている姿を示すように社会が個人に強いる現
象がここにも見られる。社会からの指弾を怖れて二級の劣性は自分の本性に忠実になるこ
とを恐れた。それがジャワで一般的なジェンダー構造だ。しかしジャワ人が歴史の初めか
らそうであったかどうかについて、昔からそうだったわけではないと語る意見がもちろん
ある。


イスラム化される前のヒンドゥ=ブッダ時代に、ジャワの王国にしばしば女王が国家行政
に采配を振るった事実が見られるのである。いや、イスラム王国だから女王がありえない
ということも安易には言えないのだ。アチェスルタン国で1641年から1699年まで
4人のスルタナが連続して王位に就いている。

ジャワの古代王国カリンガで西暦674年にシマ女王が王位に就いた。この女王の話は有
名で、中国の歴史書にすらその名前が記されている。シマ女王のあとカリンガ王国が分裂
してからも、南カリンガ王朝にふたりの女王が連続して立った。モジョパヒッ王国にもし
ばしば女王が天下に号令した時期がある。

イスラム王国時代の初期にも、ドゥマッの王の娘がジュパラにカリニャマッ王国を建て、
その初代女王になっている。パジャンのジョコ・ティンキルが覇権を握ってからは、女王
がジャワの地に立つことはなくなったようだ。

ジャワの説話の中にも、女性を主人公にした昔話が存在している。Calon Arang、Asal 
Mula Tengger dan Gunung Batok、Damar Wulan dan Menak Jinggaなどがそれに該当する。
この女性主人公たちは雄々しく男と渡り合う強さを示していて、女性が主人公であっても
運命と男に翻弄される物語とは趣が異なっている。


海洋時代のヌサンタラで、女性は男性と同等に社会を形成する存在だったという説もある。
家庭内労働者に位置付けて男性の社会活動を陰に回って支援するだけの存在が女性だった
のではないというのがその説の主張だ。ジャワの女性、特にジャワ島北岸部の女性たちは
今でも決して家の中に閉じこもっておらず、農業労働者になったり、はては石割工までし
ている者が大勢いる。ドメスティックとパブリックというディコトミーを設けてハビタッ
トを分けてしまうということが行われる以前に、女性たちはそんな枠を乗り越えて両方の
場を自分の生きる場所にしていたことが推測されるのである。

もっと踏み込んで、太古のジャワ島は男優女劣社会でなかったと主張する声もある。ワヤ
ンのストーリーの中にそれが示されていると言うのだ。ラッワナ王のアレンカ王国は男女
同等社会だった。女性が社会生活や家庭生活の第一線にいて、あらゆる仕事をこなした。
女性も自分の主張を唱え、自分の気持ちを他人に向かって自由に表明した。

ラッワナの妹のひとり、サルパケナカがラマの弟ラクスマナを目にしたとき、恋に落ちた。
サルパケナカは自分の気持ちをあからさまにラクスマナに語りかけた。ラクスマナは困惑
してしまった。父権制社会であるラマのアヨディヤ王国では、女は常に淑やかにしていて
男からアプローチされるのを待つのがあるべき姿だったのだから。会ったばかりの男が気
に入り、それを男に語りかけてくるような女は、貞淑さの欠けた身持ちのいい女ではない
というのが男女関係に関するアヨディヤの常識だったのだ。

そのワヤンのストーリーに示されたふたつの価値観が、ジャワの民衆の中に浸透した。男
女同等の価値観は特にジャワ島北岸部で強く浸透した。東ジャワのある地方では、女性が
男性にプロポーズし、女性の方が夫を選ぶ風習がいまだに残されている。[ 続く ]