「恐怖のマドゥラ人(1)」(2023年06月20日)

インドネシアで一般に流布しているマドゥラ男のイメージは、黒いゴンブロgombroズボン
に黒い上着、少しゆるめのシャツは赤白の横縞模様になっていて、こげ茶の頭巾を頭に締
めた服装で登場する。

インドネシアの諸種族が頭につける布の頭巾は、頭頂部を覆わずに頭の周囲に巻いて縛る
ものがikat kepala、頭頂部を含めて頭全体を覆うものはtutup kepalaと呼ばれている。
イカックパラにしても、日本のような鉢巻きスタイルでなく、布の一部を立てたり下げた
りして洒落るのが一般的だ。上に頭巾と書いたが、マドゥラ人が頭につけるのはイカック
パラである。

そしてマドゥラ人のイメージは更に、男のシンボルである鼻ひげを長くたくわえてねじり
上げ、その端を耳の穴に差し込んだ獰猛そうな顔が加わり、それでまだ足りなければ手に
抜き身の鎌を握らせるといった描写で完成するだろう。


マドゥラ人の鎌は元来の農具が武器専用に用途転換されたものだ。必要に応じて武器にも
使われる農具の鎌はインドネシアで一般的にsabitやaritと呼ばれている一方、マドゥラ
人の武器としての鎌はceluritと呼ばれる。マドゥラの男が辱めや卑しめを受けたとき、
かれらは男の誇りを守るためにチュルリッだけを手にして、伝統文化の作法にしたがった
carokと呼ばれる決闘を行うのだ。

チャロッは人の来ない淋しい場所でふたりだけで行われる。開始の前に互いに家族への遺
言を言い交す。生き残った者が相手の家族にその遺言を伝え、同時に敗れた者の死体がど
こにあるのかを教える。そのとき、敗れた者のチュルリッも一緒に相手の家族に渡される。
それ以上にチャロッの勝敗を明白に示すシンボルは他にあるまい。チュルリッは安易に他
人の手に触れさせるべきものではない。


誇りのために刃物を使って生命のやり取りをする男たちとくれば、そりゃ怖いだろう。男
とは他人を殺す強さを持たなければならない存在であり、そうであってこそはじめて真の
男を名乗れるのだという観念はこの半世紀くらい前まで世界中の至るところにあったよう
だが、今は野蛮という悪名を与えられて地上から消えつつあるように思われる。

もしも男が野蛮と呼ばれる要素を捨てることによって女に似た性質に変化して行くのであ
れば、人類の進歩とは社会の女性化であると言うことができるかもしれない。何千年もの
間、野蛮の道の中で生き死にを繰り返してきた男たちが別の道に移ったとき、真の男とい
う価値観を具現する形としてどのようなものが存在し得るのだろうか?もちろんタネ屋以
外のことについての話だ。真の男、そのアンチテーゼとしての真の女、といったジェンダ
ー差別を孕んでいる言葉は男の女性化とともに死語になっていくような気がする。

いや、わたしは男と女の同等性に反対したり、それを否定したりしているわけでは決して
ない。ただ、男の野蛮な道の中で男同士が殺し合いをしていたのが、その男の野蛮な道の
道路フェンスが外されて男女同等の道に広がるわけだから、野蛮な男と野蛮な女が男女同
等の道の中で殺し合いをする可能性がアンフェアという基準なしに発生するのではないか
と懸念しているだけだ。


それはさておき、上のようなマドゥラ人のカリカチュアは新聞雑誌のあちこちに登場する。
東ジャワの伝統演劇ludrukの出し物に、ありとあらゆる問題事をチュルリッ一本で終わら
せていくジャゴアンを描いたSakerahというものがある。あるいはジャカルタ在住マドゥ
ラ人のコミュニティが作ったマドゥラソサエティ同盟が示威行動を起こすとき、チュルリ
ッを手にした男たちが必ず何人もその中に混じる。

プラムディア・アナンタ・トゥルの歴史小説四部作の舞台になったニャイオントソロの経
営する農園でニャイに忠節を尽くす暴れ者使用人のダルサムは、チュルリッを愛用する命
知らずのマドゥラ人として描かれている。[ 続く ]