「恐怖のマドゥラ人(3)」(2023年06月22日) また別の笑い話では、マドゥラ人がスラバヤのドクトルストモ地方総合病院に入院した。 スラバヤで第一級の病院だ。医師が診察にやってきたので、マドゥラ人は医師の名前を尋 ねた。医師が自分の名前を言うと、マドゥラ人は不満な顔をして医師の診察を拒否した。 「あんたじゃだめだ。わたしゃドクトルストモに診てもらいたいんだ。」 牛泥棒の話もある。牛を盗んだマドゥラ人が警察に捕まった。マドゥラ人は取調官に供述 した。「わたしゃ牛を盗んでなんかいませんよ。綱の端を見つけたんで拾った綱を持って 帰ろうとしただけだ。ところがその綱の反対の端に牛が付いてたんでさあ。」 たいていの笑い話では、マドゥラ人はうすのろの役回りを持たされ、愚かな考えにもかか わらず自分は正しいと固執し、その姿勢で相手にかかっていく姿に描かれている。 2001年に中部カリマンタンのサンピッとパランカラヤで起こったマドゥラ人マフィア とダヤッ人マフィアの抗争は種族間衝突に発展し、5百人を超えるマドゥラ人が殺され、 10万人超が家財道具を略奪され住居を失って州外に去った。ダヤッ人の中に首狩りの風 習を復活させた者がいて、メディア界に大きいニュースバリューを提供した。首を狩られ たマドゥラ人は百人近かったそうだ。 その抗争はもっと以前から始まっていて、1996〜97年にも大規模な衝突が発生し、 6百人の死者が出ている。マドゥラ人のカリマンタンへの移住は1930年にオランダ東 インド政庁がはじめたトランスミグラシ政策に乗ってスタートし、2000年にはマドゥ ラ人移住者が中部カリマンタン住民人口の21%に達した。マドゥラ人はアグレッシブな 経済活動を行ったために地元民の反感を買うケースが昔から頻繁に起こっていた。 そんな事実や噂話がマドゥラ人の肖像画の周囲にあふれんばかりに刻みこまれているのだ から、マドゥラ人と悶着を起こすと後が怖いとだれしも考えるようになるだろう。そんな 恐怖が心の奥底に影を宿したとき、マドゥラへ行こうと誘われたなら誰しも躊躇する気分 になって当たり前だろうと思う。 だがしかし、そんなイメージにのめりこんでいてはいけない、とコンパス紙記者は言う。 マドゥラ島へ行って見てみるがいい。黒いゴンブロズボンと上着、赤白横縞のシャツを着 てうろついているマドゥラ男を目にすることはまず起こらない。マドゥラ人の日常生活は スラバヤの町中のような雰囲気であり、現代インドネシアの諸地方都市とたいして違って いるわけではないのだ。 村落部にしても同じで、若者は町中のような姿、年寄りはサルン姿でコピアをかぶってい る。あの島に1千軒を超えるプサントレンがあることを知っているインドネシア人の中に は、女性たちがアチェのように日常でもジルバブやチャダルを着て暮らしているように想 像するひともいる。それも想像がもたらした結論だ。そんな姿をしている女性はプサント レンコミュニティの中での話であり、一般的な日常性の中では普通の地方都市と何ら違い がない。 マドゥラの地元文化研究者によれば、黒色上下に赤白の横縞シャツはマドゥラの伝統衣装 ではないそうだ。そのスタイルはスペインなどの海賊船乗組員の服装に影響されたものと 見られていて、ジャゴアンをシンボライズする服装としてマドゥラの船乗りたちがそれを 模倣したのではないかという見解をかれは語った。 だからマドゥラ人にとってその服装はあくまでも男のシンボルなのである。男のシンボル を掲げるのに適切な場でそれをするのが所を得た振舞いであり、日常生活にそこまで男の シンボルを見せびらかす者はかえって非常識と見なされるのがオチだ。かれらにとって男 のシンボルを示す場はkarapan sapiやotok-otokなどの祝祭が該当しているから、そんな 祭りの日々には期待された服装の男たちが会場をうろつくことになる。 オトッオトッはマドゥラ式のアリサンであり、数日間祝宴が繰り広げられて伝統芸能も演 じられ、華やいだ雰囲気の中でアリサンの抽選が行われる。そんな祝宴の中にtuakが顔を 出す。トゥアッはヤシの花の汁を発行させたアルコール飲料で、イスラム化する前のマド ゥラはトゥアッの産地としても知られていた。イスラム化してからは、公然とそれを作る マドゥラ人はいなくなったようだが、オトッオトッは相変わらず続けられているのだから、 オトッオトッで陽気に騒ぐ数日間、トゥアッの香りが漂うこともあるという話だ。 [ 続く ]