「恐怖のマドゥラ人(5)」(2023年06月26日)

人工的に灌漑がおこなわれることによって灌漑設備の恩恵を受ける農業社会の規模が拡大
した。直接的な接触をしたこともない社会構成員の間でイマジンドコミュニティの感覚が
生じることも起こり得たはずだ。灌漑の仕組みが農民につながりの意識をもたらす動機に
なったということもありえただろう。

しかしマドゥラ島では、たとえばサンパン県の住民人口の8割が農業を営んでいるものの、
サンパン県に灌漑設備は一ヵ所もないのである。マドゥラ島の農業は昔からの伝統的なス
タイルが営々と続けられている。つまり世襲制度だ。

地主の代替わりが起こると、後継者はその土地とその土地で働いていた者たちを受け継ぐ。
小作人は代々が小作人になり、農業労働者になる。地主はパトロンになって小作人の面倒
を見るし、小作人もクライエントになってパトロンに仕える。オルバ期に行われた緑の革
命はマドゥラの農業社会にたいした変化をもたらさなかった。人口爆発と農業の退化は農
業労働力を増加させたものの、労働の場が拡大したわけではない。


低学歴労働力の増加が貧困と後進性の空の下でマドゥラの大地を埋めた。その一方で、拝
金主義的人間の格付けが盛んになった。財産のない人間はだれにも尊重されない。島の中
でどんなに勤勉に働きたいと思っても、やせ細った労働機会と低効率のための低報酬によ
って財形の道は半ば閉ざされたも同然だ。その解決策が島を出ることになったのも当然の
帰結だったろう。行政が進めるトランスミグラシ政策や自由意志による移住を多数のマド
ゥラ人が選択した。

ジャワに移住するマドゥラ人は学問や宗教を深めようとする知的な人間が少なくなかった
が、カリマンタンに移住する者たちの中にはいなかった。カリマンタンが学問宗教を求め
る場所でなかったのだから、そうなるのが当り前だろう。カリマンタンに向かったのは貧
困で低学歴の村落部住民たちだったのである。

サンピッとパランカラヤでの種族衝突事件の底流にそれがつながっている。中部カリマン
タンに移住した貧困マドゥラ人は移住先でスラムを作った。いや、カリマンタンだけでは
ない。スラバヤやジャカルタのような大都市ですら、移住した貧困マドゥラ人は行く先々
でスラム地区を作ったのである。おまけに同郷者が集まったコミュニティはエクスクルー
シブな場所になった。

それがマドゥラ流ということだったのだろうか?そうとは言えない。どの種族であろうと
も貧困で低学歴な集団であればコミューナリズムを持っているのが普通だ。そして特定種
族のスラム地区ができてしまえば、そこは排他的なコミュニティになるだろう。


サンピッ、サンバス、パランカラヤなどにできたマドゥラ人部落は、地元種族との融和的
な関係を築くことよりも経済競争を闘争の色合いを込めて展開する方向に走った。多分そ
のポイントこそがマドゥラ流だったと言えるのかもしれない。

そしてインドネシア人が独特のニュアンスを込めて使う言葉「マフィア」の抗争が種族間
衝突に火をつけたのである。インドネシア人が言うマフィアとは闇ビジネスを行う者、あ
るいは闇ビジネスをサポートする集団や組織を指している。中部カリマンタンのケースで
は、賭博や売春などの非合法ビジネスをバックアップし、それらの事業主が事業を発展さ
せられるように公的私的な障害を除いてやる仕事をマドゥラ人マフィアは行っていた。

他の種族にだってこの種のマフィア業を行う人間は必ずいる。ましてや地元種族において
おやだ。どうやらこの部分でも、マドゥラ人マフィアは相互繁栄を目指そうとせず、唯我
独尊を志向したのではあるまいか。


tapal kudaと呼ばれているジャワ島東部のパスルアン・プロボリンゴ・ルマジャン・ジュ
ンブル・シトゥボンド・ボンドウォソ・バニュワギの諸県は古い昔からマドゥラ島とつな
がっていた。マドゥラ島南海岸部の住民はマドゥラ海峡を越えて対岸のジャワ島に経済活
動の場を求めた。住みついてそこに墓を残す者も少なくなかった。[ 続く ]