「恐怖のマドゥラ人(6)」(2023年06月27日)

1806年にサンパンの太守チャクラニンラが住民25万人をタパルクダ地方に移住させ
た。そのために、現在のタパルクダ地方はマドゥラ文化の色濃い地域になっている。ただ
しそれは色濃いということであり、マドゥラ文化の土地になったわけではない。その反対
で、ジャワに移住したマドゥラ人にジャワ化が起こったと言う方が適切だろう。いくらジ
ャワ島中心部から外れているとはいえ、中部ジャワにある王国の威勢が届いていなかった
わけでは決してないのだ。ジャワ島の支配者は、属国と見なしているマドゥラ島からやっ
てきた者たちに対し、ジャワ化させることで移住を受け入れたように思われる。


2013年にコンパス紙取材班はスラバヤからバニュワギへ向けて北海岸道路を走った。
そしてあらゆる町にマドゥラ系のひとびとが住んでいることを再確認した。Gempolの町に
入ると、ベチャ引きたちの会話がインドネシア語で行われている中にマドゥラ語がちらほ
らと使われている。マドゥラ弁の発音は隠すことができない。

Situbondoで給油したとき、30歳台の給油係女性と言葉を交わした。2000年にスム
ヌップから移住してきたかの女は、「マドゥラでは働こうとしても仕事がない。ジャワに
は仕事がいっぱいある。」と語った。Banyuwangiにもマドゥラ人はたくさんいるが、シト
ゥボンドほどの密度ではない。シトゥボンドの町はマドゥラ人の溜まり地だと言われてい
るのだ。

マドゥラ人はジャワでさまざまな仕事に就いている。下はベチャ引きから物売り、更には
宗教を教えるウスタツ、公務員、ジャーナリストにまでなって、ジャワ社会の中に溶け込
んでいる。

そのコンパス紙記事の中に記されているマドゥラ人と呼ばれている人間がすべて移住者一
世であるとはかぎらない。百年以上前に移住してきたマドゥラ人の子孫で、マドゥラ文化
を自分のアイデンティティにしている者も含まれている。つまりマドゥラ系プラナカンと
いうことだ。

先祖代々が混血を繰り返してきた家系の子孫が外来種族の文化を自分のアイデンティティ
にするためには、その土地に外来種族のコミュニティが根を張っていることが重要なファ
クターになるのではないだろうか。


御朱印船時代にあれほど東南アジアの各地にできた日本人町が消滅してしまったとき、そ
の町に最後までいた人間がすべて純血日本人であり、原住民と家庭を築くことをせず、町
の滅びとともに日本人町の全住民が純血方針を貫いて根絶やしになったという想像は的外
れのような気がする。普通の人間のすることとは思えないからだ。

その最期の世代の中に純血日本人の子供が混じっていたことは大いにありうるだろう。そ
の子が青年期に達したときに日本人コミュニティは消え失せているのだから、地元民と家
庭を築いて地元社会に入って行くしか社会生活を送る方法はなかったのではあるまいか。

そのようにしてできた日系混血の子孫が10世代以上も続けば、日本人の血が混じってい
る人間の数は理論上で数千人にのぼるはずだ。しかし自分の先祖に日本人が混じっていた
ということすら忘れ去られて、地元種族の大海の一滴になる可能性はきわめて高いように
思われる。その数千人はゼロとしてしか日系人の数の中に算入されないだろう。

日本人町が栄華のさなかにあったころ、日本人町の中に地元民と夫婦になって混血の子供
を持った家庭は本当に皆無だったのだろうか?それはその日本人町が持ったコミュニティ
の許容度の問題になるだろう。コミュニティが認めなければ、日本人町を去って原住民社
会に入って行くか、それともコミュニティが認める相手と所帯を持つか、という選択にな
る。日本人というのはそんな昔から純血主義を信奉して自分の心を殺すのが当たり前の人
間ばかりだったのだろうか?

もっと下種の想像をするなら、原住民の女をなで斬りにして男の快炎をあげていた者はい
なかったのだろうか?なで斬りにされた女たちの中に妊娠した者はひとりもいなかったの
だろうか。その子供は自分の実の父親を知らず、したがって母の文化を自分のアイデンテ
ィティとして持ったはずだ。日本の文化がその子の環境に存在しないのだから、当然のこ
とだろう。[ 続く ]