「恐怖のマドゥラ人(7)」(2023年06月28日)

たとえ日本人町を去った日本人の父親と一緒に暮らしたとしても、日本人町を離れた父親
自身が地元文化に溶け込まざるを得なかっただろうから、その子供は自分のアイデンティ
ティとして父の教える価値観と母が示す生活様式が折衷する傾向を持ったものと推測され
る。日本人町というコミュニティから離れてしまうと、子供が自分のアイデンティティと
することのできる父親の文化は父親の中にしか存在しなくなるのだ。結果的に、圧倒的に
優勢な地元社会の文化に染まっていく傾向がたいへん高まるだろうとわたしには思われる。
染まらなければ自分の生活コミュニティから浮き上がってしまうのだから。

わたしは人間というものを、幼児期を過ぎると親から離れて、責任を取らせようのない社
会というものに育てられる子供ではないかと考えている。だから、人間を血統や姿かたち
といった生理学的な要素で見よう、把握しよう、区分しよう、とする姿勢がいかにあやふ
やなものであるかということをわたしは主張しているのである。どこそこの国にいるXX
人種系国民は何人とか何パーセントといったデータが何を根拠にしているのか、そこのポ
イントに関してわれわれはもっと論理的になるべきではないだろうか?マドゥラの話に戻
ろう。


実際に、このヌサンタラにいるたくさんの種族と同様、マドゥラ人もヌサンタラのほとん
ど全域に散らばって生活している。スマトラのトバ湖周辺にあるカロやトバサモシルやプ
マタンシアンタルにまでマドゥラ人は住んでいるのだ。その地方で暮らしているマドゥラ
人の多くはサテマドゥラの食べ物商売をしているという話だ。

マドゥラ人に付いて回る怖いイメージとは別に、マドゥラ人には派手好みというイメージ
もある。スラバヤでは、女性が派手な化粧をすると「マドゥラ人みたいだ」という冗談が
飛ぶ。マドゥラ女性は概して化粧が濃く、服装も派手な色使いのものを着用し、本人に似
合っているかどうかはあまり頓着しない。

マドゥラ人の派手好みの例にあげられる筆頭がマドゥラ漁船の舳先に描かれるけばけばし
い彩色だ。全長9メートルの船体にペンキが塗られる。木の耐久性を高めるためではあっ
ても、使われている色は明るい色調のものが一般的だ。高くせり上げた舳先には、たとえ
ば緑色をベースにし、その上に赤と白で模様が描かれる。おかげで遠くからでも実にはっ
きりとその姿を識別することができる。

漁船をけばけばしく塗りたくるのはヌサンタラでだいたいどこでも似たような傾向にある
から、マドゥラのトレードマークにはしにくい。だったらスムヌップの大モスクはどうだ
ろうか。17世紀に建てられたとき、その大門は白と金色で塗られた。王宮の大門ならま
だしも、そこはモスクなのだ。マドゥラを訪れて観光名所を巡遊するとき、大モスクの大
門の前に立って違和感を抱くインドネシア人観光客も少なくない。

墓地を訪れたらもっと歴然とするだろう。ヌサンタラのどこでも、たいてい墓碑は白塗り
が普通だが、マドゥラでは緑色や赤色などに塗られているものもあり、エキゾチックさは
いや増しになる。

スムヌップから西に向かうとマドゥラ家具の生産センターになっているKardulukがある。
家具や木彫調度品が作られていて、特異な色使いがエキゾチックさを発散させており、一
時期全国的に人気の高まったことがある。ニス仕上げのような木目を見せる家具はほとん
ど見当たらず、濃い緑色を基調にして、その上に赤白黄色で彩色されている。

青年男女が着ている服も概してけばけばしい印象であり、真っ赤なシャツあるいは明るい
派手な色の服装が好まれる。アーバンライフを体験した若い女性たちはおおむね厚化粧を
したがる。


マドゥラ人のその派手好みについて地元文化研究者は、心にある歓びの表現が明るい派手
な色を選択させるのだと言う。マドゥラ人の人間観は生きることを歓びと捉えている。そ
の快感が歓びの表現として真っ赤な色を選ばせる。インドネシアで一般的に赤色は勇気や
騒ぐ心を象徴していると考えられているものの、マドゥラ人にとっては歓びなのだ。
[ 続く ]