「文化崩壊するマドゥラ人(4)」(2023年07月06日)

マドゥラ人の人口増がインドネシア国民センサスの中で停滞しているのは世間に対して自
分をマドゥラ人と認めたがらないことの表れだ、とスムヌップ生まれのマドゥラ人学者が
解説した。ヌサンタラの他種族がマドゥラ人に対して抱いているイメージが良いものでな
く、社会交際の場でも親しく受け入れてもらえないことが往々にして起こっている。さら
にもしもマドゥラ人が社会的に高いステータスを得たとき、自分の出身種族をはっきり示
さない傾向が出現している。マドゥラ人の良くないイメージがあまりにも長期間にわたっ
て世の中で継続したために、一種の社会トラウマになってしまったのがそれらの原因であ
る、と学者氏は述べている。

マドゥラ人が他種族の土地にランタウしたとき、自らをマドゥラ人に育て上げた故郷の文
化をランタウ先のひとびとに示そうとせず、むしろ隠そうとするケースが多い。中でもマ
ドゥラ語の使用を避けてジャワ語を使おうとするのはよく見られる現象だ。ジャワ語が巧
みに使える者はその能力を誇りにするそうだ。単に技能が優れているということだけでな
くて、自分がジャワ人になりおおせるという実質的なメリットに関わる技能が誇りをより
高く押し上げるのだろう。


マドゥラ島の地形と風土がマドゥラ人に独特の性格を育んだ。不毛の土地がかれらを危険
に満ちた海に向かわせて、強い勇気と高い自尊心を持ち、硬い意志と旺盛な意欲を抱え、
忍耐力の豊かな海洋民族にした。時に、かれらの社会生活の中に過剰なレベルの自尊傾向
が現れて、プライドを死守するための、力と力の対決に至る現象が起こった。それがマド
ゥラ人の暴力傾向を培うみなもとになった。

暴力傾向を持つ社会では、教育レベルの低い階層が自分の欲望を満たすために安易に暴力
をちらつかせて他者を威嚇する現象も多発する。それらが合わさって、暴力的で怖い種族
だという良くない評価を他種族から受ける原因になったのである。

それとは別に、マドゥラ人は篤信のイスラム教徒にもなった。イスラム教がマドゥラ社会
に入って来たあと、マドゥラ人の社会生活はイスラム法で再構築され、個々人の精神の根
底にイスラム教が置かれることになったのだ。マドゥラ人を作り上げているイスラムがマ
ドゥラ種族の根源であり、マドゥラ種族の根源であるイスラムがマドゥラ人を作るのであ
る。だが種族意識が逃避傾向を持ったとき、種族の根源に動揺が起こる可能性は小さくあ
るまい。マドゥラ社会の指導層にとって、現状は頭の痛い問題になっている。


マドゥラ文化が過渡期に入ってしまったことは、民衆生活の中にあった、親が子や孫にお
とぎ話を語って聞かせる習慣がなくなりかかっている点にも見られるとインドネシア大学
人類学者は言う。種族文化の中で口承で伝えられてきたローカルな物語が失われる可能性
があることと、その習慣によって作られてきた世代間の親近感が一緒に失われるかもしれ
ない。伝統的な文化を担う世代が次の世代に文化を引き継いでいくというサイクルが消え
かかっていることをかれは指摘しているのだ。
「子供や孫におとぎ話をしてやるおとなはもう見られなくなった。マドゥラ種族が伝統文
化として伝えてきたローカル物語にはたくさんのローカルの知恵が散りばめられていて、
次世代がマドゥラ文化を受け継ぐときに知っておくべき知識がそこにあるというのに。」

マドゥラ文化と一言で言っているが、マドゥラ文化は過去の歴史の中で三つの段階を経て
バラエティに富んだ様相を示すようになった。ジャワ=マドゥラ文化、イスラム=マドゥ
ラ文化、西洋=マドゥラ文化の三つの容貌がマドゥラ文化の中に混在している。

マドゥラが歴史の中でひとつの役割を演じ始めたのは13世紀にシゴサリ王国のクルタヌ
ゴロ王がアリア・ウィララジャをスムヌップのアディパティに任じて以来のことだった。
言い換えれば、それがジャワにとってのマドゥラの始まりということになるのだろう。

その段階でマドゥラ文化は社会構造パターン・社会ビヘイビア・芸能のバラエティ・言語
構造などにジャワ的要素をたっぷりと吸収した。社会構造パターンとそれに応じた社会ビ
ヘイビアは上下方向の価値観をオリエンテーションにする様式へと向かった。明白に区分
された階層が社会を垂直方向に三分割した。王族・王族に仕える役人などの中間層・一般
平民がそれだ。マドゥラ語ではrato - priyayi - oreng kenekと言う。この構造はジャワ
にあるratu - priyayi - wong cilikとうりふたつだ。[ 続く ]