「文化崩壊するマドゥラ人(終)」(2023年07月07日)

マドゥラ文化のジャワ化は三つの社会階層間で行われる対話に使われる言語まで作り出し
た。マドゥラ語にもジャワ語のような社会階層を反映する言語スタイルが生じたのである。
マドゥラの芸能にもジャワ的要素が入った。ガムラン音楽がマドゥラの舞台芸能に必須の
ものになった。

マドゥラ文化の中にある演芸について言うなら、ガムランの伴奏で演じられるのが普通の
topeng dalang、ajingあるいはludruk、その他slabadanやlawakなどの舞台芸能は依然と
して村落部で生き延びており、都市部でも祭りや結婚式あるいは祝宴などでまだそれらの
姿を目にすることができるため、この分野における伝統は強く維持されていると見てよい
のかもしれない。


マドゥラのイスラム化もジャワ人がもたらしたものだ。大きい枠組みの中で見るなら、こ
れもジャワ化の一環と見ることができるだろう。だからジャワ人が咀嚼して消化したイス
ラムがマドゥラ人のイスラムの源泉だと言えるように思われる。

Tanah Seribu Pesantrenとあだ名されているマドゥラ島で、島内にあふれんばかりのプサ
ントレンで教えられているイスラム教儀は、アラブ語原本がジャワ語訳されたものがマド
ゥラに持ち込まれて、それがマドゥラ語に翻訳されたものになっている。

マドゥラ社会でコミュニティを導く社会的有力者としてキアイやウラマが中心的位置に置
かれている点にも、ジャワ式イスラムの様式を見出すことができる。これもジャワ文化が
持っている垂直方向のオリエンテーションを示すものだ。

マドゥラ人は深くイスラムに帰依しており、そのファナティシズムはジャワ人の比でない
という説を裏書きする事例がある。マドゥラの伝統型住居建築様式としてタネアンランジ
ャンというスタイルが知られている。これは一家一族の住居を同一敷地内に集めた場合の
建物配置様式の名称だ。イスラムがマドゥラに入ってきた結果タネアンランジャンの同一
建物内における生活様式が変化したという話が語られている。大人の男女が寝る場所が切
り離されて、女は各自が自分の家で眠り、男が寝る場所はスラウになった。
タネアンランジャンの詳細については拙作
「マドゥラのジェンキ建築(3)」(2023年05月24日) 
< http://indojoho.ciao.jp/2023/0524_2.htm >をご参照ください。


西洋文化のマドゥラ文化への浸透はマドゥラ島がオランダ人に征服されてからスタートし
た。支配のための闘争との二人三脚で西洋文化との接触が始まったのだから、心酔してそ
の文化を摂り込もうという心情がマドゥラ社会にミニマムだったことが想像される。結局
はオランダ人の強力な兵器による戦力と、狡猾な欺瞞に満ちた外交戦略によって、マドゥ
ラ人がその支配下に落とされることになった。そのとき、マドゥラの宗主がジャワからオ
ランダに入れ替わったことになる。

そうなる前のマドゥラの地元支配層はジャワから支配権を認められて、地元での最高権力
者として振る舞っていた。しかしオランダはその態勢をマドゥラに許さず、マドゥラの支
配者は中央政府から給料をもらう一官僚の立場に落とされてしまった。

西洋文化がマドゥラ文化に摂り込まれた初期時代の目に見える実例は、建築様式の面を筆
頭に挙げてよいだろう。プジャガラン王宮、スムヌップ王宮、スムヌップ大モスク、アス
タティンギなどの建築物の中に散りばめられた西洋風の要素が、西洋文明と相対したマド
ゥラの地元支配層が摂り込んだ西洋文化だったのだ。

マドゥラの民衆レベルにおける西洋文化の浸透は長い時間をかけて徐々に進展して行った。
西洋諸国が世界を制覇したあとに世界中で起こった西洋文明のローカル文化への浸透と同
じような流れで、それはマドゥラの地に浸み込んで行ったことだろう。

地元伝統文化の西洋化が文明化の名前で世界中に起こったように、マドゥラ社会もその波
に洗われることから無縁でなかったはずだ。だがそれは、マドゥラ人の文化崩壊とはまた
別の話になるにちがいあるまい。[ 完 ]