「暴力主義の国(後)」(2023年07月07日)

インドネシアに見られる現象についての説明なら、こんな面白い話ができそうだ。つまり、
インドネシアの映画制作界、特に1998年以前の状態、は男の世界だった。そこがほぼ
絶対的に男の世界になったら、映画の中に示される美しいもの、愉しいもの、怖ろしいも
のなどの選択に男の嗜好が働いて当然だろう。

どうやらインドネシアの男たちは女の妖怪幽霊に強い恐怖を抱いていたようだ。現実生活
で男は女を怖がらせ、虐げ、蔑んでいるというのに、フィクションやファンタジーの世界
で男は女を怖がっている。多分、暴力で脅かし、銃で撃ち、法律を作って虐げ、格付けを
して蔑むことが、生身でないために通じないからではないか?オルバ期のコミュニストと
よく似た立場だ。身体はこの世で撲滅させたものの、その霊魂は幽霊となって徘徊し、怖
ろしいことはなはだしい。

ただしこれは知性的に受け入れることができても、十分な納得が得られるものではない。
インドネシアの場合、映画制作界がその現象の原因だと言えても、やはり男の世界になっ
ている西洋の映画制作界が男の妖怪幽霊をマジョリティにしていることの説明にはできな
いからだ。まあ、いいかげんな説明をするとすれば、西洋の男たちには二重機能もパンチ
ャシラも関りを持っていないからだと言うことができよう。かれらの場合はたいてい、コ
ングロマリットや国政高官になるために暴力主義者や将軍になる必要がないからだ。

いや、これは実に低品質の回答である。ただこのような戯れが、テンポ事件以後のいろい
ろな暴力事件によって心痛に襲われているインドネシアの大衆に何かしらのヒントを与え
るかもしれないと言えるのではないだろうか、とわたしは考えている。


東インド植民地時代から後に変身してできたインドネシア共和国時代に至る全歴史を通し
て、暴力主義は重要な部分を形成した。そこでは一部の悪徒と一部の行政高官の間の提携
バランスが、上は国から下は集落に至る諸階層社会の中のバランスを操る最高位の法にな
っていた。そんな悪徒と行政高官の関係は、別の悪徒と別の行政高官が行っている提携関
係との競争の中に形成されてきたものなのである。

レミ・シラド原作の小説チャバウカン(1999年)とニア・ディナタが監督した映画化
作品はその問題をたいへん上手に描き出している。


暴力主義をあたかも社会生活の中に入り込もうとしている異物であるかのように呪う昨今
の姿勢は奇妙に感じられる。大衆の話題の中に登場する暴力主義者が常に男の姿をしてい
ることも奇妙だ。おまけにそれらを大衆が当たり前のように受け入れている点にいたって
はもっと奇妙なことなのである。

インドネシアが安全平穏にして繁栄する国になるのはいつのことだろうか?暴力主義者が
怖ろしい生き物であることを描くホラー映画の洪水が起こった時がそれかもしれない。そ
れはふたつの条件が満たされたときに起こるだろう。ひとつ、これまでインドネシアの女
性層が体験して来たような立場にインドネシアの暴力主義者が立たされた時。もうひとつ
は、オランダ領東インドにせよインドネシア共和国にせよ暴力主義者が立ち続けている立
場に女性層が立とうとしない時だ。[ 完 ]