「スマラン5日間戦闘(1)」(2023年07月10日) 1945年10月15日から19日までの5日間、スマランの市中で行われた日本軍城戸 部隊の軍事行動とブル監獄で起こった多数の日本人拘留者に対する虐殺事件を日本人はス マラン事件という名前で呼んでいる。 インドネシア人はそのできごとの公式名称をPertempuran Lima Hari di Semarangとした。 このインドネシア語がスマラン五日間戦争と日本語訳されているのだが、インドネシア語 のプルトゥンプランは英語のbattleやcombatに対応していて、日本語では戦争よりも戦闘 の方に語義が近い。warとbattle、戦争と戦闘は語の定義が違っているとはいえ、日本語 では英語やイ_ア語よりも高い自由度で同義語として使われているようだから五日間戦争 と訳しても何ら問題はないのだが、この拙文のタイトルには戦闘の語のほうを使うことに した。 英語ではThe battle of Semarangと呼ばれており、スラバヤの戦闘もBattle of Surabaya となっていて、イ_ア語のpertempuranと一貫的に対応している。 スマランで起こった城戸部隊の軍事行動は日本人虐殺事件の結果生じたものという理解が 日本では一般的なように思われる。だが、それは逆だと言う主張がインドネシア人から出 されている。それがどちらであったにせよ、われわれが既に抱いているそのできごと自体 に対する評価にそれほどの影響をもたらすものにはならないような気がしないでもない。 その5日間、スマランで日本軍と対戦したインドネシア人青年たちがまとめた追想の記録 が2000年に出版された。複数の人間が述べた追憶を歴史の流れの中に散りばめてでき ごとを再構成した物語になっていて、そこでは城戸部隊が起こした軍事行動がインドネシ ア人の怒りを煽ってブル監獄の虐殺を引き起こした内容で描かれている。 真相がどちらであるのかを判定しようというのでは決してない。だれかが語る歴史の真相 とやらを鵜?みにすることのリスク例を、わたしは単に読者の前に投げ出そうとしている だけだ。 日本とインドネシアという関係の中でのみスマラン事件を解釈しようとするのが日本人の このできごとに関わる姿勢であるとするなら、インドネシア人の主張はそんな枠組みを飛 び越えて、グローバルな力学構造の中で一日本人が示した行動というフェーズへの跳躍的 視野をわれわれの前に展開するものになる。インドネシア人の主張はそんな帰結に向かわ せる誘引力を持っている。 本論の骨子はスマラン事件で日本人と渡り合ったインドネシア人たちのメモワールである。 ストーリーの奥行の眺望を見晴らしよくするために、関連性を持つ史的事実と解説を書き 加える作為が本論筆者によって行われたことをお断りしておきたい。 太平洋戦争が勃発すると、大日本帝国軍は東南アジアに進攻した。ジャワ島進攻は陸軍が 西部のバンテン湾、インドラマユのエレタン、そして中部ジャワのパティレシデン区に属 すルンバンの町に近いクラガン海岸の三カ所に一斉上陸し、クラガンに上陸した部隊はた いした抵抗も受けずにスマランの町に入って占領した。 1942年3月8日にオランダ領東インドは日本に無条件降伏し、インドネシアを占領し た大日本帝国陸海軍は全土に軍政を敷いた。中部ジャワは中村陸軍少将がマグランに中部 防衛隊司令部を置いて地域軍政を統括し、要衝であるスマランには城戸陸軍少佐指揮下の 大隊が置かれた。スマラン市南部のジャティガレとジャンリが城戸部隊の司令部兼軍駐屯 地になった。そこは元々オランダ東インド植民地軍の司令部兼軍営があった場所だ。 [ 続く ]