「チュルリッとチャロッ(1)」(2023年07月10日)

恐怖のマドゥラ人はいまだにceluritで他人を攻撃することをしばしば行っている。20
23年4月5日にバンカランで村長選挙を前にした選挙運動が行われているとき、チュル
リッを持った男が他人に斬りつけて傷を負わせる事件が発生した。

2022年3月にやはりバンカランで起こったチュルリッを使う喧嘩出入り事件のビデオ
もcarokというタイトルでユーチューブにアップされている。普通の服を着た男たちが町
のど真ん中で、ひとり対三人で斬り合いをしている画像だ。チャロッの公式定義である、
マドゥラの伝統衣装を着て、当人ふたりがだれも来ない場所で果し合いを行うというもの
とは違っている。


マドゥラ文化の人間がチュルリッを手にして暴力を振るえばすぐにチャロッという言葉が
与えられる風潮が起こっているようで、形式にこだわらない感覚が進行しているというこ
とかもしれない。

その現象を批判するマドゥラ人識者の書いた記事もネット内に見られる。マドゥラ人がチ
ュルリッで他人に斬りつけたのはpembacokanであり、もちろんチャロッではない。また、
チュルリッを手にして斬り合いをするのも、単なる喧嘩出入りでしかない。チャロッは伝
統作法を踏まえて秘密裡に行われる果し合いであり、一時の感情爆発で刃物を振り回すも
のとはまったく異なっている。

昨今のひとびとは非マドゥラ人からマドゥラ人自身まで含めて、プンバチョカンや喧嘩出
入りをチャロッと呼ぶ傾向があるがそれは間違っている、というのがその論評だ。


イ_ア語ウィキペディアの解説によれば、辱められたり卑しめられたりした男が男として
のプライドを維持するために、それを自分にした男とチュルリッだけを手にして決闘し、
相手を倒して殺すのがチャロッというものだ。

現代人が勘違いしがちなのは、上で言っている男としてのプライドや自尊心をその人間が
持つ個人的な心理傾向と考える点ではないかと思われる。封建社会において、男が支配す
る社会が与えるプリビレッジを享受できる男は社会が男と認める人間だけだった。だから
男としての誇りや自尊心という言葉であたかも個人の心理傾向を述べているような表現が
なされているものの、それは社会的な支配階層というステータスに直接関係するものだっ
たということではないかとわたしは考える。

封建社会では、他人になめられて男としてのプリビレッジを行使することもできない男は
「男じゃない。女の格好をして女のように生きてりゃいい」という観念が社会常識だった。
LGBTには単に生殖の問題だけでなく、この種のエリート観念もからみついている。そ
の観念がいまだに生きながらえているコミュニティもこの広い世界のあちこちに散らばっ
ているから、都市部でLGBTへの尊重が高まって来たからと言って、世界の片隅にその
感覚で入って行くのはリスクがあるだろう。


チャロッの原因となる卑しめや辱めとは多くの場合、その男が守護するべき妻や子供に対
するもの、その男の手に入ってしかるべき資産や利益が掠め取られるもの、などが該当し
た。そこから、マドゥラの男が背負ってきた責任がどのようなものであったかが推測でき
るように思われる。

チャロッは当人の家族が果し合いに賛成したとき、はじめて行われる。賛成しない場合は
話し合いによる問題解決が進められる。だが話し合いの根底に男が立つか立たないかとい
う社会的な価値判断が大きく関わっているのだから、両者は自分が勝つことを熱望するは
ずであり、結局は双方の家族が顔を背け合って社会生活を送るということになるのかもし
れない。この仕組みの中では、和解は成り立たないのではあるまいか。

またそれとは別に、果し合いが行われて一方が死ぬと、死んだほうの子孫は殺した側への
復讐の念を抱き続けるそうで、世代を越えて果てしない殺し合いが続く可能性もある。
[ 続く ]