「スマラン5日間戦闘(2)」(2023年07月11日)

日本軍政期にはインドネシアの標準時が日本と同じにされた。日本軍が占領した東南アジ
アの各国はすべて同一方針が取られたようだ。だからジャワ島では朝日が昇る午前6時過
ぎが午前8時半過ぎになった。昔の日本とジャワ島の時差は2.5時間だったのである。

カレンダーも日本と同じものになった。日本のカレンダーは月・日・曜日が西暦と同じに
なっていたからそこの問題は何も起こらなかったが、年の数字が大きく違っていた。西暦
1942年は皇暦2602年であり、それに関する政令がジャワ軍政監部から出されると
すぐに新聞雑誌ラジオなどの公的メディアは1942年を2602年と表現するように変
わった。

しかし民衆の一般生活においては、皇暦と西暦が併記されることが多かったようだ。イン
ドネシアでは以前からイスラム暦と西暦が併用されてきたから、一般庶民の生活は皇暦が
加わって三本立てになったということになる。いや、独自の暦を持つジャワ人やバリ人な
どは以前から三本立てになっていたわけで、皇暦が加わって四本立てになったのではある
まいか。


その行き掛かりで、1945年8月17日の日付が独立宣言文の中で05年と表記される
結果を生んだ。インドネシア人がインドネシアの社会生活とまるで無関係な皇暦をわざわ
ざ選んで使ったということでなくて、三年半前からインドネシアの全土では西暦・イスラ
ム暦・皇暦の三本立てが使われており、公式暦年は皇暦が使われるように定められていた
のである。

公式暦年に皇暦を使うように定めた政令が出されていたのだから、法的に見ればその政令
を改める次の命令が出されるまで皇暦の使用を続けるのが筋道ではないかとわたしは考え
る。ただ実態は、インドネシア共和国政府が西暦を公式暦年に定める前に、ジャワ軍政監
部のオサム政令で定められた皇暦使用はダイニッポン降伏の直後から庶民生活の中で捨て
去られていた印象があり、独立宣言文がどんな根拠あるいは思惑で05年と書かれたのか、
疑問を呼ぶところだろう。

今や独立宣言文起草記念館となっている前田精海軍少将公邸における徹夜の宣言文起草作
業に関わったひとたちの追想の中にある「暦年のことまでまったく気が回らなかった」と
いう述懐に従うなら、その時期のインドネシア人の習慣の中に皇暦は既に定着していた印
象が濃い。


日本軍政はまた、日本で行われていた隣組制度をインドネシアに持ち込んだ。オランダ東
インド政庁は行政機構が末端民衆を一貫的に包み込むことをせず、末端民衆を掌握するプ
リブミ統治機構の上に乗っかる形態を原則にしたから、異民族支配者が現地人社会を直接
操作することは稀であり、現地人社会の自転は現地人が培ってきた統治体制の中での自治
的な様相を強く持っていたと考えられる。つまりオランダ人は現地人社会のプリブミ支配
者を握って操り人形にしていただけというのが実相であり、現地人社会の内容はプリブミ
支配者を通して把握することで済ませていたように見える。

隣組制度が導入されたことで、末端民衆の実態内容に関するデータ的な把握が統治行政上
層部に可能になった。更にこの制度のおかげで、統治行政上層部の意向が末端民衆の家々
にまで明瞭に伝わるようになった。オランダ時代のように現地人社会のプリブミ支配者を
通して行っていれば、その実現はたいへん困難だったはずだ。

この制度の末端民衆統治行政にもたらす大きい効果を認識したインドネシア共和国内政機
構は、日本軍政が消滅したあとも隣組制度を維持し続けて今日に至っている。もちろん名
称は日本軍政期のtonarigumiという日本語からインドネシア語に変えられてRTRW(Rukun-
Tetangga Rukun-Warga)になり、kumichoという言葉もketua RTになっている。[ 続く ]