「チュルリッとチャロッ(2)」(2023年07月11日)

果し合いが行われるとき、三つの条件がそろっていなければならないとされている。まず
肉体面と精神面で殺し合いを行う能力があること。武器の扱い・格闘技能・度胸などが不
十分であれば、死が待ち受けているだけだろう。次に不死身の術がある。祈祷師ドゥクン
に不死身の術をわが身にかけてもらわなければならない。しかし結局負ければ死ぬことに
なるのだが。

話しでは、相手の身にかけられた不死身の術を破るために、チャロッの準備のひとつとし
てチュルリッにkhodamという特別の霊を封じ込めることをするそうだ。こうなると、人間
の技能とスーパーナチュラルの補助機能を総動員した闘いになる。対決するふたりは空中
を飛んだりするのだろうか?

マドゥラ島東部地方では決闘のときに、左手は腰の帯を握り、右手にチュルリッを持って
斬り合うグッテッグサッブという作法も行われているという話だ。二刀流を使う決闘者も
いるそうだから、グッテッグサッブをチャロッの条件にすればそれを封じることができる
わけだ。


三つ目の条件は金だ。まず既述の二つの条件のための資金。次に、死んだ側の葬式費用。
そして勝った者は警察に出頭して殺人を自供し、裁判を受けることになるから、判決を軽
いものにするための資金が必要になるのである。

社会が長い歳月をかけて連綿と築き上げてきた伝統慣習と現代法の間に衝突が起こったと
き、現代法で否定されている価値観を社会がかたくなに維持しようとする場合、その帳尻
を合わせる手法のひとつが多分それだろう。現代人はそれを賄賂と見なし、腐敗裁判を行
う法曹界を弾劾するわけだが、そういう基準を適用してこの問題を片付けようとする姿勢
が本当に正しいのかどうか、わたしには確信が持てない。


アジアにおけるこの生命観の変化が近代以来、世界制覇を果たした西洋文明への盲従によ
って生み出されているのであれば、今や黄昏の色濃い西洋文明の栄華がこの先いつまで続
くか判らないわけだから、それに取って代わる新文明が新しい生命観を打ち立てる可能性
がなきにしもあらずだろう。西洋文明が理想とした諸価値が本当に全人類の理想であった
かどうか(少なくともアジア人の理想になったかどうか)は、今からもう数百年後を見る
ことで判明すると思われるものの、もちろんわたしがその新たなるものを全人類究極の理
想だと考えているわけでもない。万有を構成している個々のものは永遠に存在できるもの
でなく、滅びの時に至るまでの過渡的現象とされているのではなかったろうか。

ただまあ、試行錯誤で組み立てられてきた生命観が長い時間の中で変化して来たわけだか
ら、より完成したものに向かって進んでいることは間違いあるまい。しかし生命に関する
価値観は人類の生存システムに密接にからんでいるはずであり、生命観だけを独立したも
のと見るわけにもいかないのではないかとわたしは思う。数百年後の人類がどのような生
存システムを選択しているのか、多分それがその時代の生存システムをサポートする理論
としての生命観を形成するように思われるのである。


ともあれ、チャロッについて上述のところまでは一応の筋道が立っているように思われる
のだが、イ_ア語ウィキペディアの解説には少々奇妙な尾ひれが付けられていた。チャロ
ッのやり方にはふたつあり、世間の目の前で相手の家に乗り込んでいって果たし状を突き
つける~ゴンガイと呼ばれるものと、ニュルップと呼ばれる、日常生活の中で相手が犯す
油断の不意を衝いて行われるものがあるのだそうだ。

更には、辱めや卑しめを受けたとき、即座に相手に一太刀浴びせるものまでチャロッに含
まれると書かれていて、それだと冒頭に書いたマドゥラ人識者の批判は的外れということ
になってしまいかねない。

この識者はニュルップをチャロッとして認めていないようにわたしには思われるのである。
しかしチャロッはその二種で構成されているという解説もたくさんあり、情報を集めれば
集めるほど明確な定義に近付けなくなってしまう。[ 続く ]