「スマラン5日間戦闘(3)」(2023年07月12日)

日本軍のジャワ島進攻が行われる数日前に、スマランのすべての学校が休校になった。そ
して日本軍政に変わってからおよそ6カ月後に、休校になっていたスマランのすべての学
校が再開され、オランダ式から日本式に切り替わったカリキュラムで学校教育が再開され
た。とは言っても、学術面の内容とレベルはだいたい似通ったものになっていた。大きい
変化は西洋文化を踏まえた術語や観念に関わるものだった。要するに西洋文明をそのまま
鵜呑みにするスタイルでなくなったということだろう。

驚嘆するべきは、そのわずか半年の間にインドネシア語の教科書が理数系から人文系まで
すべての科目に用意され、それを教育するインドネシア人教員の養成までもがなされてい
たことだ。

スマランに開かれた高等中学はひとつだけだったが、初等中学は7校あった。女子初等中
学校も設けられている。男子生徒は例外なく坊主頭にされた。毎朝、登校すると朝礼が行
われた。君が代を斉唱し、東京遥拝を行う。東京に向かって最敬礼したあと、新ジャワ学
徒の誓いを誦し、そしてラジオ体操が始まる。

学校の中からオランダ語を含む西洋語は完璧に排除され、インドネシア語が義務付けられ
た。そして日本語の学習が教科の中に含められた。インドネシア語・日本語・体操・教練
などの科目が新設され、それらと文化の教育が中等学校で特に注力された。体操・教練も
オランダ時代には科目の中になかったものであり、インドネシア人の先生が生徒を指導し
た。


日本時代に行われた学校教育の中で、運動教育(体操・器械体操・水泳・ベースボール)
と芸術教育(音楽・歌唱・踊り)は大きい効果をインドネシアの民衆にもたらしたと評価
されている。オランダ時代にそれらの分野はエリート階層のものにされていて、それらを
学んだりプレーするのは上流階層のたしなみになっていたのだ。それが一般民衆の子弟に
一度はやってみるものとして門戸が開かれたのだから、埋もれるしかなかった才能の開花
する機会がたくさん出現したように思われる。

学校の教室で教員が生徒に教えるための媒介言語がインドネシア語になったことは、オラ
ンダ時代のエリートコースだったHBSのプリブミ生徒に不利に働いた。オランダ時代の
高校レベル生徒たちが自動的に高等中学校に移されたわけではない。HBSの生徒たちに
は3ヵ月間のインドネシア語レッスンが用意され、期間満了後にインドネシア語能力テス
トが行われて、テストに落第した生徒は高等中学に移ることができなかった。反対にMU
LOの生徒はオランダ語・英語・ムラユ語が必須科目になっていたから、かれらはスムー
スに移行することができた。


日本軍政下にインドネシア人の若者は、16歳になると青年団に入って軍事教練を受ける
ことが義務付けられた。年齢の満たない中等学校生徒は青年隊に入り、また学校は学校単
位で学徒隊を設けて軍事訓練を励行させた。学徒隊の指導は青年団に入っているその学校
の上級生が行った。

教練というのは兵士の基礎訓練を内容にしている。日本陸軍兵士の標準装備である、長さ
およそ1.5メートルの歩兵銃の形に作られた木製の銃に剣を付けたものを持ち、整列行
進し、匍匐前進し、突撃し、銃剣で想像の敵を突く。少なくとも月一回は銃を担って5〜
10キロの行進を行った。行進途中での落伍は許されず、精神に活を入れるためのビンタ
が乱れ飛んだ。教練で正しい姿勢や動きが取れない者、やる気や元気がないと見られた者
はビンタの洗礼が避けられなかった。[ 続く ]