「スマラン5日間戦闘(4)」(2023年07月13日)

中等学校生徒にはまた、勤労奉仕という義務も課された。そのほとんどが土木作業であり、
無報酬・手弁当で強制されたために、多くのインドネシア人がそれを強制労働と見なした。
かれらはカリバンテン飛行場、ジャティガレ兵営、ゴンベル丘陵地帯などへ運ばれて、土
を掘り、丘を削り、地面を均し、水路を作るといった作業を行った。

それ以外に、青年団の仕事として公的な場所の警備をさせられることもあった。飛行場・
鉄道駅・食肉用屠殺場などの戦略的な場所で、治安のための警備を行うのである。


青年団の訓練は週3〜4回実施され、西スマランと中央スマランはプンドリカンで、東ス
マランはチタルム広場で行われた。太平洋戦争初期の日本軍の破竹の進撃の印象が強く刻
み込まれている時期だったために、参加者は全員がその強さに憧れて真剣に訓練を受けた。
この青年団の訓練の中から特別優秀な者が掘り出されてエリートグループが編成され、特
別部隊という名称が与えられた。

特別部隊員は専用の寮に入れられて集中的な軍事教育を受けた。かれらは徒歩でスマラン
とドゥマッのブヤラン間を往復行進したこともある。またジャワ島各地に作られた特別部
隊から選抜された者がジャカルタに集まって交換活動を行った。

スマラン青年団特別部隊員はサラティガに設けられた青年道場で、日本軍士官やペタの小
団長から二週間の教育を受けた。


日本軍の破竹の進撃に節目が現れ、戦略の基本姿勢が攻勢から守勢に変化してから、ジャ
ワ島の日本軍政は態度が変わった。戦争遂行のための資源調達が激化したために一般民衆
の生活が極度の貧窮に見舞われることになったのだ。特に米の生産と流通は厳しい管理下
に置かれて、生産者農民でさえ自分の作った米を常食にすることもままならぬ状況になり、
キャッサバやコンニャク、キャッサバをコメ状にしたティウルなどを食べて飢えをしのい
だ。

戦争の最終勝利を目指してという名目でロームシャの強制徴募と送り出しも増加し、鉄を
集めるために住居の塀やマンホールのふたをなりふり構わず取り去り、黄金や貴金属装身
具などを民衆に供出させ、インドネシア人民衆の財産が容赦なく削り取られるようになっ
た。そのころが、民族解放の黄色い小人という好印象が圧制者略奪者という名の谷底に転
落して行く転機だったようだ。

そんな状況に対する苦情を言えば、その反日的言動がケンペイタイにしょっぴかれる原因
になり、残虐な拷問が加えられて生命の保証されない結末を招いた。谷底はますます深ま
るばかりになっていったのである。

インドネシア語成句にpulang hanya tinggal namaというものがある。これはランタウ・
旅行・戦争などで故郷を離れた者が出先で死亡することを指して使われる言葉だ。その時
期にインドネシアでは「憲兵隊にしょっ引かれたら戻って来るのは名前だけ」という言葉
が諺のように語られていた。

スマランでもそんな状況にはいささかの違いもなく、ケンペイタイは反日分子を捕まえて
鉄槌をかまそうと躍起になって民衆生活の裏側を嗅ぎまわり、報酬を与えて密告を奨励し
た。おかげでひどい生活に陥ったことを苦情する人間はいなくなった。周囲にいる他人は
スパイかもしれないのだから、迂闊に日本の悪口を言うと名前だけになって家に戻ること
になる。[ 続く ]