「チュルリッとチャロッ(4)」(2023年07月13日)

チャロッに勝つと、勝者はすぐに警察に出頭して殺人を自供する。それは法治社会におい
て社会責任を果たすための当然の振舞いであるとはいうもののそれと同時に、敗れた側の
一族が行うであろう復讐から保護してもらうためでもあるというのが現実なのだそうだ。
果し合いの結果は時の運という古武士的な観念は現代マドゥラ社会にあまり残っていない
のかもしれない。

そしてナバンが行われ、軽い刑を終えて社会に復帰すれば、法治社会でかれが果たすべき
義務は満了し、勝者は社会名士としての輝かしい暮らしに入る。歴史の中で起こった、世
間に名をあげて称賛されるということに実利が付随しているのは、時と所を問わず世界中
のどこにでもあったし、今でも続いているようにわたしは考えている。

ところが社会的な名誉が実利を生むのを不純と考える文化は、現実に存在している不純に
口を閉ざすことで子供たちの目を閉ざし、空中スクリーンに映した絵だけを子供たちに見
せてそれを現実と思わせるようにしてきたのではあるまいか。


勝者にそんな未来が待ち受けている一方、チャロッの敗者になった場合は残された家族に
悲惨な暮らしが訪れる。勝者が社会でちやほやされるのであれば、敗者は社会からゴミク
ズのように扱われるはずだ。社会心理がバランスを要求する以上、そんなプラスとマイナ
スの現象は必ず出現し、プラスの幅が大きければ大きいほどマイナスも深くなると考えて
よいように思われる。要はゼロサムコンセプトなのである。

たとえば一家の主人が敗者になったとき、遺族は愛する者を失って喪失感を抱えながら日
々を送る。ある調査によれば、それは2ヵ月から6ヵ月間継続する。

マドゥラ社会で一家の生計の柱は男が握る。その柱が抜けてしまうと、生計にも大穴があ
く。しばらくは貯えで食っていけるようにしておかなければチャロッの土俵に立つことは
できないだろう。「金がないならチャロッはするな」はこの面にも当てはまる。

そして世間から見下され侮蔑される社会交際に甘んじなければならない。勝者の栄華が脚
光を浴びれば浴びるほど、その陰に置かれた敗者の遺族は悲惨な暮らしに落ち込むことに
なるのではないか。


現代の学術論文によると、チャロッの発生はふたつの背景を持っており、ひとつは村長選
挙、もうひとつはレモと呼ばれる行事だと記されている。レモというのは金を集めるため
にジャゴアンたちが集う催事であり、世間にジャゴアンとして名をあげたい男がそこでお
目見えをする。自分の腕前を示したい連中が集まるわけだから、チュルリッも鞘走り続け
るだろう。

ジャゴアンたちが党派を組むのは、人間のユニバーサルな行動のようだ。仲間のひとりが
決闘チャロッの勝者になると、かれのナバンのためにレモを催して金集めをするそうだ。
反対にこれから決闘チャロッをしようとする者のためにレモが催されることもある。

この話は古式豊かな伝統型チャロッでなくて、現代的な風潮に落ち込んでしまったチャロ
ッの現象的な面を語っているように思われる。


オランダ人社会学者や人類学者がマドゥラ人のハードな性格に興味を抱いてチャロッに関
する調査を植民地時代から行っていたから、歴史的な文献も少なくない。

オランダのネイメーヘン大学社会学者ユブ・デ・ヨンガはチャロッの背景にmaloと呼ばれ
る恥の観念がある、と語る。恥を感じたマドゥラ人は刃物を抜いて、その恥を雪ぐ機会に
それを振るう。その機会が今なら今すぐに、今が不適切であればその機会が来た時に。

マドゥラ社会がその恥と暴力傾向の組合せを持つようになったのは19世紀初期だったと
デ・ヨンガは言う。その時代、マドゥラのプリブミ支配者たちはコンシューマリズムにの
めり込んだ。その費用はかれらの支配下にいる民衆からかき集めた。そのやり方が支配者
である貴族階層の権威を失わせたために、慣習法執行者への信頼が崩れた。社会の法に対
する服従傾向が弱まり、社会生活の不確定さが広がり、社会を律するものが法から個人の
力に移って行ったのがその結果だ。こうして犯罪が激増した。[ 続く ]