「スマラン5日間戦闘(6)」(2023年07月17日)

歴史の教員シギッと数人の生徒に嫌疑がかけられ、かれらはケンペイタイにしょっ引かれ
て取り調べのために留置された。また捜査活動の中でスマラン中等学校連盟の存在とその
会長であるペピ・アディウォソの名前が判明し、ある夜、スタジアム近くの広場で開かれ
た夜市に遊びに来ていたペピが憲兵隊員に逮捕された。

その翌日、ペピは真昼間の太陽で熱せられたトタン板の上に裸で寝そべった状態で憲兵隊
員の尋問を受けている。ペピおよび中等学校連盟はシギッとその教え子たちの活動と何の
関係もないと当局側が判断したため、ペピはその日の夕方に釈放された。憲兵隊はペピを
釈放するに当たって、「お前が受けた逮捕と尋問に関する話を決して誰にもしてはならな
い。それに違反すればお前の父親と家族が逮捕されることになる。」と威嚇したから、ペ
ピはその体験を誰にも一言も語らなかった。憲兵隊のスパイが壁に耳を持ち障子に目を持
っていることはインドネシア社会の常識になっていた。

シギッの教え子のひとりが、取調べの際の拷問のために名前になって家に帰った。ホース
で水道の水を腹が裂けるまで飲まされたのだ。


民族独立という政治意識の高まったスマラン高等中学生徒たちはスマラン出身の民族活動
家たちの手引きを得て、太平洋戦争の最新状況に関する知識を得た。民衆の持っているラ
ジオはひとつ残らず、外国の放送を受信できる周波数帯を軍政当局が封印したが、ラジオ
製作の心得を持つ者は封印を外してひそかに外国放送を聞いていた。だから民族運動活動
家たちの間で、8月15日に日本が無条件降伏したことは知れ渡っていた。

スマラン高等中学生徒有志の二回目の会合で日本の敗戦が明らかにされたとき、プティ・
ムハルトは次のような意見を語った。
「今われわれがなすべきことは、各地元で日本人の統治を妨害することだ。日本人が使っ
ている自動車を奪い取る。それができなければタイヤをパンクさせたり、エンジンのロー
ターを破壊してかれらが使えないようにする。施錠されている倉庫があれば、扉を打ち破
る。日本人が住んでいる家はかれらがそこに住めないような状態にしてしまう。」


スマラン中等学校連盟の加盟校が自動的に対日サボタージュの司令部になり、各学校生徒
たちの動きが大きな波となってスマランの市中に広がって行った。この国土の主権はわれ
われインドネシア人のものであり、これまでインドネシア人の上に君臨してきた日本人の
手から今こそ奪い取らなければならない時が来ている。ここを去るまで日本人にインドネ
シアの統治を続けさせれば、かれらはオランダ人に統治権を返還して去って行くだけだ。

だがインドネシア人庶民の中には日本人を畏敬する者がまだまだたくさんいる。つまり半
分は尊敬だが残る半分は恐怖だ。その恐怖は日本人が支配者として君臨している間にさま
ざまな方法で民衆に植え付けたものだ。庶民から恐怖心を取り去るためには、日本人が尊
敬に値しないというイメージをかれらに持たせればよい。そうすることでトアンニッポン
など怖れるに足らずという気構えが生じてくるはずだ。


スマラン市民に向けて中等学校生徒たちの作ったポスターが市中のあちこちに掲げられた。
ポスターには日本人のさまざまな姿が描かれていた。その姿からそれが日本人を意図して
いることはすぐに判ったが、顔は猿になっていた。

日本軍政の最高機関であるジャワ軍政監部は当初から、諸通達や命令、戦争の諸情報など
を印刷物の形で発行し、民生の要所に配布していた。スマラン高等中学でも朝礼のときに
その軍政監部ニュースが読み上げられていた。

スマランでは新聞社シナルバルがブリタグンセイカンブを印刷していて、新聞配達人がそ
れを配達先に届けていた。その配達をやめさせなければならないと生徒たちは考えた。あ
る日、高等中学生数人が新聞配達人を捕捉して軍政監部の印刷物を渡すよう要求した。そ
の意図を説明したが配達人も自分の職務をあっさりと放棄するわけにいかない。言い合い
になったが多勢に無勢、高等中学生はそれを奪い取って走り去った。そして近くの川まで
行って水中に投げ捨てたのである。[ 続く ]